2013/12/02

“星を動かす少女”

12月と言えばクリスマス。クリスマスと言えば、どの教会でも子どもたちが主イエスの降誕劇の練習のために大忙しになるものです。私は昨年、初めて横須賀小川町教会の降誕劇を観て、心を動かされました。すばらしい出来映えでした。そして、一所懸命に演じている子どもたちを見ながら、一つの詩を思い出してもいたのです。それは、神学生時代に知った「星を動かす少女」という作品で、松田明三郎という牧師がつづったものです。
           * * *
       クリスマスのページェントで
       日曜学校の上級生たちは
       三人の博士や
       牧羊者の群れや
       マリヤなど
       それぞれ人の眼につく役を
       ふりあてられたが
       一人の少女は
       誰も見ていない舞台の背後にかくれて
       星を動かす役があたった
       「お母さん 私は今夜、星を動かすの 
    見ていて頂戴ね」
       その後、堂に満ちた会衆は
       ベツレヘムの星を動かしたものが
       誰であるか気がつかなかったけれど
       彼女の母だけは知っていた。
       そこに少女のよろこびがあった。
           * * *
神と自分との間に誰にも気づかれないような喜びを持つ。それはまるで神と自分との間で秘密を共有しているかのようですが、実はこの見えない喜びこそ、受胎告知を受け入れたマリアの服従と一つのことであり、夢の中で主イエスの父になるように示されたヨセフの畏れとも一つのものなのです。神に見つめられ、見守られていることを知り、それを喜べるかどうか。そして、その喜びで満たされる自分であるかどうか。我々は子どもたち一人びとりの配役や演技に注目しますが、神がご覧になるのはその“心”であると心に刻み付けておきましょう。

2013/11/09

“神さまがくれた耳”

アメリカの学校で理科の授業中、実験に使っていたマウスが逃げ出してしまいました。女性の教師が皆に探させましたが見つかりません。そこで全員を席に着かせ、自信たっぷりにこう言いました、「これだけ探して発見できないのなら、あとは、モリス君にお願いしましょう」と。途端に「ちょっと待って、何でアイツが」という声があちこちから起こります。教室はざわめき、一人が「先生、モリスには無理です」と手を挙げて言いました。実はモリスは目が不自由なのでした。すると教師は答えました、「なるほど、確かに目が不自由です。だからモリス君には無理だと、みんなは思うかもしれません。でも、先生は知っています。モリス君は目が不自由でも、神様から素晴らしい能力をもらっています。それは聴力です。それを生かせば必ずマウスを見つけてくれると、先生は信じています。モリス君、お願いできますか?」。そして、モリスは期待に応えて見事にマウスを捜し出したのです。その日の日記にモリスはこう書き残しました、「あのとき、僕は生まれ変わった。先生は僕の耳を神様がくれた耳と言って、褒めてくれた。僕はそれまで目が不自由なことを、心の中で重荷に感じていた。でも先生が褒めてくれたことで、僕には大きな自信がついた」と。

このマウス事件から十数年後、神の耳を生かして音楽の道に進んだスティービー・モリスは、シンガー・ソングライターとして鮮烈なデビューを果たします。「スティービー・ワンダー」という名前で。
 もしも、モリスがあの女性の教師に出会っていなかったら、今も目が不自由なことを重荷に感じ、生きていたかもしれません。けれどもモリスは変わったのです。自分の良いところを褒めてくれた、一人の教師によって。「神様がくれた耳」と言ってくれた先生の言葉のおかげで。

誰にでも「自分は人よりも劣っている」と思える点があるものです。しかし、そこで劣等感を募らせるか、神さまが授けてくださったものに注目し、活かそうとするか。人生が喜びに溢れるかどうかは、自分をデザインなさった造り主である神を喜べるかどうか、それと一つのことではないでしょうか。

2013/10/07

“野口英世のきっかけ”

日本国内で今一番多く出回っている「顔」は誰の顔でしょう? それは嵐でもAKB48でもなくて、野口英世だと私は思うのですが、いかがでしょうか。なぜなら、ほとんどの大人が千円札を持ち歩いているからです。もちろん紙幣の流通量で言えば、福沢諭吉の壱万円札には遠く及びませんが、少なくとも私の財布の中には野口英世のほうがたくさんいるのです。

野口英世がキリスト者であったことは余り知られていません。1876(明治9)年11月9日、英世は福島県耶麻郡に生まれました。一歳の時に囲炉裏に転落して大火傷を負い、左手が癒着してしまいますが、15歳の時に手術をしてくださった医師の影響で英世も医師を目指すようになります。そして、それが、英世がキリスト教会と触れ合う切っ掛けとなりました。

医学書の精読のために英世はフランス語を学びに行くのですが、そこはカトリック会津若松教会でした。そこで英世は、これまでに見たこともない別世界(ミサや祈り)に触れることになるのです。そして英語を学びに会津栄町教会(現在の日本基督教団若松栄町教会)に通い、そこの牧師とたいへん親しくなって、創立2年目のこの教会で、2人目の受洗者(洗礼を受けたひと)になりました。

このように、野口英世が教会に行くことになったのは、語学を学びに行ったのが切っ掛けです。このことは、幕末・明治期のキリスト者の多くが武士階級、知識階級の人々であったことの典型でしょう。開国後の日本のキリスト教はそこから始まって現在に至っています。

もしかすると皆さんの中にも、ご自分がいつの間にか教会に来ていた、戻って来ていた、と言う方があるかも知れません。それで良いのです。イエス=キリストの神は、それぞれの切っ掛けを用いて、あなたに出会ってくださるからです。いや、あなたと“出合う”ために、あなたにピッタリの切っ掛けを、キリストが用意なさっていたのです。

2013/09/06

遠 き 国 や

J.V.マーティンという人が作詞、作曲をした「遠き国や」と歌い始める讃美歌があります。マーティンは、英語教師として日本に滞在中であった1923年9月1日、東京で関東大震災に巻き込まれました。しかし九死に一生を得、多くの被災者が明治学院の運動場で夜を迎えていると聞き、そこを訪ねます。すると、人々に支給されて点火されたロウソクの火が、ちょうど暗闇の中で十字架のように見えました。そこでマーティンはすぐにペンを執り、この詞を一気に書き上げたのです。

「遠き国や海の果て/いずこにすむ民も見よ/なぐさめもてかわらざる/主の十字架は輝けり/なぐさめもてながために/なぐさめもてわがために/揺れ動く地に立ちて/なお十字架は輝けり」(日本福音連盟発行『聖歌』397番1節)。

マーティンは大阪に移った後、この詞(全三節)に曲をつけました。こうして今から90年前、一つの讃美歌が日本で生まれたのです。それ以来、日本中のキリスト者、特に最近では阪神・淡路、能登半島、そして東日本の幾人ものキリスト者たちが、この讃美歌を愛唱しています。それはきっと、「どんなに激しく大地が揺れ動いても、愛する者を失った悲しみに遭っても、救いの保証である十字架が揺れ動くことはない。キリストが救い主でいらっしゃることに変わりは無い」、そういう堅い確信を歌い上げているからでしょう。

「なお十字架は輝けり」、この歌詞に応えるようにして、教会は今日も会堂の一番高い所に十字架を掲げています。それは行き交う人々に問い掛けるためでもあります、「あなたの救いは何ですか? 揺るぎない慰めとは何ですか?」と。

私たちの人生には思いがけない出来事が起こります。そして悲しみ、涙します。けれども、そのただ中で、揺るぎない慰め、確かな救いに与っていれば、ひとは平安でいられるのです。「自分にもそんな慰めが必要だ」と思われた方はぜひ、新しい扉(自動ドア)から教会堂にお入りください。十字架のイエス=キリストが復活され、慰めを差し出そうと、今日もあなたをお待ちです。

2013/08/03

コルベ神父の奇跡

かつて長崎で伝道していたマキシミリアーノ・コルベ神父は、故国ポーランドに帰り、修道院長になりましたが、その3年後、第二次世界大戦開戦と共に侵入してきたナチス・ドイツ軍に捕らえられ、協力的でないという理由で、アウシュビッツ強制収容所に入れられました。

ある日、コルベ神父が容れられた第14号棟から一人の囚人が脱走しました。逃亡者は発見されず、そこで見せしめのために十名が飢餓室に入れられることになったのです。
指名された内の一人の若い男が「自分には妻や子どもがいるから許してくれ」と泣いて頼みます。その様子を見かねて身代わりを申し出たのがコルベ神父でした。

「彼は、ほかの連中と飢餓室に連れ込まれました。ひじょうに小さい、身動きができないような箱の中へ閉じ込められたまま、その日から水の一滴、パンの一片も与えられません。やがて当然、ほかの一緒に入れられた囚人たちは全部死にました。しかし、どうしたのか、この神父さんだけはまだ生きていたのです。

皆さんはここまで話すと、この時、何か奇跡が起こって、天からパンが来たとか、あるいは、この人が助かるような出来事が起こったと思うでしょう。しかし本当の奇跡というものはそういうものではありません。この神父さんはほかの仲間よりも永く生き残りはしましたが、ナチの親衛隊は、彼に石炭酸の注射をし、彼はそのまま死んでしまったのです。

私はこの神父さんが飢餓室の中へ閉じ込められた時、突然、空からパンが降ってきたり、あるいは天上から光が発し、ナチの目がくらんだというようなことが起こったとしても、それが奇跡だとは思いません。そんなことより、この神父さんが目の前で泣いている若い男のために、何の悲壮感もなく、『私は神父だから妻子がない、この人の身代わりにさせてください』と言って、その男のために飢餓室に入って死んでいった―この事実こそ、私は奇跡だと言いたいのです」(遠藤周作『私のイエス』祥伝社)。

奇跡を信じるかどうかは、信仰の本質ではありません。しかし、キリストを信じている人は、奇跡を体現できるのです。それは、誰かの身代わりになれるほどの愛をもって生きるようになる、という奇跡です。

2013/07/19

子どもへのまなざし

1920年代のこと、ある幼稚園で先生が、初登園した一人の園児にこのように言いました、「あなたは画家になるかも知れないわ」と。

この園児の名はチャールズ・シュルツ。シュルツは当時、『ポパイ』のようなキャラクターが登場する人気コミックに夢中でした。しかし、青年になって、ある日「絵を描くのは好きですか?」という広告を見て、美術を学び始めます。そして何とセントポール・パイオニア・プレス紙に『リル・フォークス(Li’l Folks)』というコミックを掲載するようになりました。そうかと思うと、大手出版社エージェンシーに『ピーナッツ』と改名した連載コミックを持ち込み、この『ピーナッツ』が1950年、7つの新聞でデビューを果たして、1999年までに世界中の2600に及ぶ新聞各紙で同時掲載されるまでになりました。そしてシュルツはコミック作家にとって最高の栄誉であるルーベン賞を2回授与され、1978年の「国際的コミック作家」に選ばれるまでになったのです。

ちなみに、シュルツ・ファンの間で「いちばん好きな登場人物」はスヌーピーだそうですが、あの白黒のビーグル犬は、シュルツが幼かった頃、一家に贈られて来た小さな毛むくじゃらの犬がモデルであったと言われます。そして、その犬を描いたスケッチを見て、幼稚園の先生があの予言をし、しかも見事にその予言は的中したのでした。

親あるいは大人たちの、子どもへのまなざしが問われているように思えます。大人の安心や先の満足のために子どもを急かすのではなくて、今の子どもをただ愛し、子どもの特長を見いだそうとするまなざし。そのまなざしを持つ限り、我が子に苛立つことは無い筈です。そして我が子のみならず、CSの子どもたちにも、それぞれの特長を見いだしたい、と願うものです。ゆとり教育は高等学校で施行されるだけになってしまいましたが、子どもへのまなざしには、上述のような意味での“ゆとり”が欠かせないのではないでしょうか。

「もし、ぼくが次の世代へのプレゼントを贈るとしたら、『自分自身を笑い飛ばせる才能』を贈ると思うな」(チャールズ・シュルツ/1922 - 2000)。

2013/06/09

花の日の訪問

今日は各ご家庭から花をお持ちいただき、礼拝堂を花で飾り礼拝をお捧げしました。
午後には花束を作って、教会学校の生徒たちが介護老人保健施設に行きました。そして、入所されている方・職員の方たちにお花を届け、讃美歌を歌い楽しいひとときを過ごしました。


2013/06/01

絶望のとなりに

「アンパンマン」の作者 やなせたかし さんは聖公会所属のキリスト者です。漫画家として有名ですが、「手のひらを太陽に」を作詞なさった詩人としても知られています。このやなせさんがお書きになった詩の中に「絶望のとなりに」という詩があります。

  絶望のとなりに
  だれかが
  そっと腰かけた
  絶望は
  となりのひとに聞いた
  「あなたはいったい誰ですか」
  となりのひとはほほえんだ
  「私の名前は
   希望です」

私たちの人生には、納得の行かないことや、不条理としか思えないことがあります。そのために怒ること、泣くことがありますが、ある人は絶望してしまうこともあります。しかし、そんな時に、自分の隣りに希望があったら、どんなにすばらしいでしょう。

やなせさんは、その希望を見いだしたひとです。そこで手掛けたのが『あんぱんまん』という絵本でした。ひもじい思いをしているひとのところへ行き、自分の頭を食べさせて、その命を繋いであげるのです。この絵本にはバイキンマンは登場しません。必要ないのです。アニメ漫画になって勧善懲悪の筋書きが主流となりましたが、やなせさんが『あんぱんまん』に込めた願いは「あなたの隣りに希望は来ている」というメッセージを伝えることでした。そして、やなせさんにとって希望とは、人となられた神の子イエス=キリストだったのです。自分を生かすために十字架の上で体を割いて下さった主イエス、この方がやなせさんの「あんぱんまん」なのです。

2013/05/10

マツノギョウレツケムシ


ファーブルの『昆虫記』の中に“マツノギョウレツケムシ”(オビガの一種の幼虫。ただし、日本のオビガの幼虫は行列をつくらない)の観察が記されています。この毛虫は4月ごろ、土の中にもぐってサナギになるために、行列をつくって場所探しをする習癖があるのです。

ファーブルはこの毛虫をつかまえて、植木鉢の周囲をグルグルと回らせました。毛虫は前のものの後ろにくっついて一つの輪をつくることになり、その名の通り行列を始めます。鉢の下にはエサも置いてあるのですが、マツノギョウレツケムシは見向きもせず、ただ黙々と歩き回り、なんと8日間も休みなく、鉢の周りを回り続けたそうです。そしてとうとうその8日目に飢えと疲れとによって倒れ、輪が崩れてしまった、というのです。

8日間歩き続けるとは、それが虫の習性とは言え、毛虫の忍耐強さには驚かされます。また、それを見守ったファーブルの熱意にも心を打たれます。しかし同時に、8日間ぐるぐると同じところを回り続けた毛虫の人生(虫生?)に、果たして何の意味があったのだろうかと考えさせられてしまいました。

私たちは毎日を生きています。それは決して容易な生活ではなく、それぞれに自分の勤めや課題や困難と取り組みつつ、一所懸命に生きていると言えるでしょう。しかし、そうした毎日の歩みの中で、私たちは「何のために」「何に向かって」自分は生きているのか、と問い、またその答えを弁えているでしょうか。毛虫のように同じところをぐるぐる回るだけでなく、目標を目指して歩むことが人間として大事なことなのです。そして、その目標をどこに置くのか、ということが、私たちの人生を決定づけるのです。

2013/04/07

タイタニックから人生を考える


豪華客船タイタニック号、と聞けば、多くの人々が若い男女のラブストーリーを連想すると思います。そうであれば、それはアカデミー作品賞に輝いた1997年公開のハリウッド映画『タイタニック』の影響でしょう。それはそれで楽しく鑑賞すれば良いと思いますけれども、実際にこの客船が沈没してしまった背景に何があるのかを知ると、自分の人生について思い巡らさずにはおれなくなる筈です。

タイタニック号の名はギリシア神話の巨人族“ティーターン”に由来します。名に恥じず46,000トンもありました。ところが、この巨船は1912414()夜、旅客約3000人を乗せて出発した処女航海の途上、大西洋の真ん中で氷山に衝突してしまいます。実はその前に「氷山あり!」との無電を受けていたのですが、無線技師が「大丈夫」と言って警告に耳を傾けず、船長にも伝えなかったのです。二度目には船長に伝えましたが、今度は船長が「大丈夫」と高を括ってしまいました。そして、見張りの者が「氷山だ!」と叫んだ時には、もう遅かったのです。しかも巨船は「不沈船」とも評されていたため、愚かにも、それを理由に救命具を半分しか搭載しておらず、1053名が溺死してしまいました。

さて、人生を船旅に譬えるなら、人生航路を行くどの船の前にも死という氷山が前方に浮かんでいることになります。しかもその氷山は一日一日、こちらに近づきつつあります。もしも「自分は大丈夫」と言うなら、その根拠を示せなければ自分を欺いているだけでしょう。ちなみに筆者の「大丈夫」の根拠は、神による罪の赦し、そして主イエス=キリストの復活です。あなたの根拠は何ですか?

2013年度の教会学校が始まりました。

今日は教会学校の礼拝に続いて、進級式がありました。

2013/03/31

イースターのお祝いをしました。

教会学校の子どもたちがイースターエッグを作り、
イースター礼拝に来られた人たちに配りました。

2013/03/01

祈りの手


先月、会堂の中に飾ってあった絵を飾り直しました。
その中の一つに『祈りの手』という絵があります。これはドイツの画家アルブレヒト・デューラー(1471-1528)の作品で、ごつごつと節くれ立った両手を組み合わせている手首だけの絵です。

デューラーは若い頃たいへん貧乏でした。ドイツのニュールンベルクでハンスという友人と2人で絵の修業をしていましたが、食べることに苦労する毎日でした。そこでお互いに約束し合い、一人が絵の修業に打ち込めるように、もう一人は働いて生活費を稼ぐことにしました。すると数年後、先にデューラーの名が知られるようになり、彼の木版画が売れ始めたのです。デューラーは喜び、ハンスにそれまでの助けを感謝して、今度は自分が働くから君が絵の修業に打ち込んでほしい、と願い出ます。ところが、長い間の激しい労働のために、ハンスの手はもはや絵筆を持つにはあまりにも節くれ立っていて、細かい筆遣いはできなくなっていたのでした。デューラーは、自分の名声の影で友人がどんなに大きな犠牲を払っていたのかを思い知ります。そして自分がハンスに恨まれていると考えてしまうのです。ある日、デューラーは意を決し、ハンスの赦しを乞いに彼の家を訪ねました。するとハンスが奥の部屋で、デューラーが名声を得たことを神に感謝し、デューラーの誤解を解いてください、と祈っているのを聞いたのです。これに感動したデューラーは、そのハンスの祈りの手を永久に残そうと思い立ち、あの不朽の名作『祈りの手』を完成させたのでした。


2013/02/01

鬼退治と罪滅ぼし


日本では「季節の変わり目になると鬼が出る」と言われています。
そのために、節分(季節の分かれ目)には悪霊払いの行事が盛んになるのです。特に浸透しているのは、立春の前日の“豆まき”であると言えるでしょう(豆粒が「魔滅(まめつ)ぶ」につながるからだそうです)。大事な食べ物を撒き散らかしてでも、私たち人間は、悪魔、悪霊、鬼の類いを追い払いたいと願っているのです。たとえ「鬼は外、福は内」とは言わなくても、誰もが心の中ではそう思っているから「節分と言えば豆撒き」という習慣になっているのではないでしょうか。

イエスさまの時代、ユダヤの人々は、原因不明の病気や理解不能の怪奇現象を、悪霊の仕業と考えていました。ですから、イエスさまが病人をお癒しになるのを「悪霊が追い払われた」と考え、「イエスさまは悪霊よりも強い偉大な方」と信じるようになったのです。しかし、そのためにファリサイ派や律法学者たちから妬まれてしまい、その結果、人間は悪霊にさえできなかったこと、つまり、神の独り子キリストであるイエスさまを十字架に張り付けにして殺してしまったのでした。つまり、人間は悪霊や悪魔よりも恐ろしい存在なのです。その原因を「罪」と言います。ところが、神さまが、この殺されてしまわれた独り子イエスさまを、私たちがささげた「生け贄」と見なしてくださったので、そのお陰で、私たちは罪の償い(罪滅ぼし)をしたと判定され、罪を赦されたのでした。これを「救い」と言います。神さま以外の誰も思いつかない、悪霊もビックリの救い方ですね。

2013/01/01

元旦、元日、命名日。


辞書に【元旦】は「元日の朝。元朝。また、一月一日。元日」と説明されています。
一方、【元日】は「一年の最初の日。一月一日。
国民の祝日で、年のはじめを祝う」と説明されています(いずれも『大辞林』三省堂)。厳密に言うと違うわけで、私などは使い分けるようにしていますが、もしかすると最近は、やかましく言って区別するひとのほうが少なくなっているのかも知れません。皆さんはどうですか?

ところで、暦を重んじる伝統的な教会にとっては、11日は特別な日なのです。それは、クリスマスから数えて8日目、つまり人としてお生まれくださった救い主キリストに「イエス」と命名された日であるからです(ルカ2.21)。この「イエス」という名前は「主は救い」という意味のギリシャ名で、ヘブライ語では「ヨシュア」と発音します。ただ、このヨシュアという名前は、当時のユダヤの家庭では長男に良く付けられていた名前で、珍しくも何ともなかったそうです。なぜかと言うと、長男が生まれると、どこの家でも「我が家にも跡継ぎが与えられた。これは神さまが我が家を祝福してくださった証拠だ。まことに主こそ我が家の救いだ」、そう言って喜んだからです。

最近は「光宙」クンとか「綺茶」チャンなど、読みにくい(だけではない)名前が見られますが、たとえ親戚や友だちの名前を忘れたり、呼び間違えたりしても、救い主の名前「イエス」だけは忘れないで一年を過ごしましょう。