2014/12/06

リンゴの話

青森県に暮らしている牧師から教えてもらい、興味が湧いたので(ちょっとだけ)調べてみました。

リンゴの原産地は中央アジアのコーカサス山脈と中国の天山山脈を中心とした山岳地帯と考えられています。ここから世界各国へと伝播しました。私たちが現在食べている西洋リンゴも1871(明治4)年に日本に導入されたものです。興味があることに、1874(明治7)年に弘前市の私立東奥義塾が招いたアメリカ人宣教師ジョン・イングが翌年の1225日のクリスマスに、当時の教え子や信徒たちにリンゴを分与したのが、西洋リンゴが紹介された最初と言われています。また、当時の菊池九郎塾長がこれを自宅の庭に植えたり、1875(明治8)年春、当時の内務省勧業寮から3本の苗木が配布され、県庁構内に栽植されて、別の台木に穂木を接木されたりします。その後、同年秋及び翌年春と計3回にわたって数百本の配布を受けて篤農家に試植され、青森県はついにリンゴの国内生産第1位となりました。

ちなみにリンゴと言えばコンピューターのアップル社ですが、そのロゴマークのリンゴは一部がかじり獲られています。これは、人間が知ってはならないほどの大いなる躍進(IT革命?)を成し遂げたことが意味されているそうで、アダムとエバがエデンの園で禁断の木の実を食べたことに準えているとのこと。ただし、聖書には「禁断の木の実はリンゴであった」とは書かれていません。これは中世の聖画(聖書物語の絵画)でリンゴが描かれていたことによる勘違いです。

今冬、食卓にリンゴがあったら、ぜひこんな話もしてみてください。

2014/11/03

アッシジのフランチェスコ

「アッシジのフランチェスコ」という人の名をお聞きになったことがあると思います。この人はイタリアのアッシジの裕福な織物商の家に生まれました。青春時代は快楽を求め、自由奔放に過ごしていましたが、ある日「騎士になりたい」と願い、戦場に赴きます。すると病気に罹るのですが、これが実に幸いでした。うなされる夢の中でイエス=キリストに出合い、すっかり回心するのです。そしてキリストに従うことを決心し、持ち物を貧しい人びとに与え、自らは粗末な服をまとい、ローマ中を巡礼しました。また、アッシジに戻り、壊れた教会堂で祈っていると「教会を建て直すように」とのキリストの御声を聞き、すぐに教会堂の再建を始めるのです。ところがフランチェスコの父は、教会のために家の財産が費やされることを嫌い、フランチェスコが財産を受け継ぐことを放棄する法的手続きをとって勘当してしまいます。それでもフランチェスコはキリストの言葉に従うことを願い、同志を集め、清貧と愛の生活を続け、多くの人びとを感化しつつ、建物だけではなく、当時の乱れた教会そのものを改善していきました。

当教会でも採用している『讃美歌21』には、このフランチェスコが紡いだ「太陽の賛歌」が、補訂された上で収められています(223番/歌詞)。教会の蔵書として備えられていますから、ご遠慮なくご高覧ください。

ちなみに、クリスマスの夜、主イエスのご降誕を祝うために世界で初めて馬小屋を飾ったのは、このフランチェスコでした。主イエスが産声を挙げられたパレスチナの家畜小屋(おそらく洞穴)とは違う中世イタリア風の馬小屋でしたが、その中に幼子キリストの人形を置くことで、フランチェスコは本当の救いとは貧しさの中にもたらされる、ということを表現したかったのでしょう。

2014/10/06

村岡平吉をごぞんじですか?

ご存じですよね。今年度上半期のNHK朝の連続テレビ小説『花子とアン』のモデルになった翻訳家村岡花子の義父、村岡平吉です(1852~1922.5.20)。平吉が生まれたのは現在の横浜市港北区小机町でした。明治の初年に東京へ出て印刷業の職工として修業し、その後、横浜・山手の外国人居留地内にあったフランス系の新聞社に勤めた頃、キリスト教に接し、1883(明治16)年、横浜住吉町教会(現在の横浜指路教会)でG.W.ノックス牧師から洗礼を受けています。その4年後、1887(明治20)年に平吉は上海に渡り、印刷工場で働きながら1年間、外国語活字を組み立てる技術を身に着けます。帰国後、横浜製紙分社という出版社に10年間勤め、1898(明治31)年に独立。中区山下町にキリスト教書籍専門の「福音印刷」という印刷製本会社を創業しました。この社名は福音主義(=プロテスタント)から名付けたものと思われ、平吉の信仰と仕事とが一体となっていたことが分かります。平吉は、聖書や讚美歌、キリスト教関係の書物をたくさん出版しましたが、国内は素より、インド・中国・フィリピンなどアジア諸国の聖書も一手に扱い、「バイブルの村岡」とまで呼ばれました。

他方、平吉は1897(明治30)年に横浜指路教会の長老に選出されます。この教会は、ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士の塾で学んだ青年たちが中心となって設立された教会でした。そのヘボン博士が1911(明治44)年にアメリカの自宅で亡くなったとき、指路教会では追悼会が開かれ、村岡平吉は長老として祈祷をささげもしたのです。

平吉は1922(大正11)年に亡くなり、翌年の関東大震災では横浜本社が倒壊、多くの社員が死亡しました。幸い、東京本社にいた息子儆三(花子の夫)は生き延びましたが、東京本社の社屋も震災後の大火で類焼しました。しかし、儆三がやがて新しい会社を設立し、妻の花子は翻訳家として『赤毛のアン』を三笠書房から出版することになったのです。その意味では、カナダ人宣教師の祈りだけでなく、キリスト者村岡平吉の祈りも『赤毛のアン』には込められていたのだと思います。
                                                                                                  

2014/09/01

ハリーポッターについての一考察

先月、家族たちがUSJに行きました。お目当ては映画化されたファンタジー小説『ハリー・ポッター』シリーズのアトラクションです。私は諸般の事情から自宅で留守番。本稿をしたためていました。

著者のJ.K.ローリングはスコットランド教会の信徒です(当教会と同じ長老教会@プロテスタント)。『ナルニア国ものがたり』のC.S.ルイスや『指輪物語』の著者J.R.R.トールキンの影響を受け、ポッターシリーズを手掛けました。ただし、ルイスやトールキンとは違い、伝道目的でこのシリーズを書いたわけではなかったようです。そのためか、第一巻が出版されるとすぐ、この作品に対する批判がキリスト教会(特に保守派)から上がります。「魔術の世界を肯定的に描くのは問題だ」と言うのです。当初はカトリックの教皇(いわゆるローマ法王)も警戒を呼びかけたほどでした(本物のエクソシストがおいでですからねえ)。なるほど、確かに聖書が魔術を禁止していることは明らかです(申18.10-11など)。しかし、ポッターシリーズに描かれている魔術は、聖書が禁止している魔術とは異質なものなので、問題にすること自体がおかしいと思います(そんなことを言っていたら、ドラクエだってできなくなります)。

そこで、少し角度を変えて、このシリーズをご覧頂くことをお勧めします。実は現在、キリスト教会からの批判は沈静化しているのですが、その理由は、既にこのシリーズが完結しているだけではなく、完結篇(第7巻)の最後で、ローリングが伝えようとしていたテーマが聖書のメッセージと重なっていたからである、と言われているのです。それは「最後に滅ぼされるべき敵は死である」、「宝のあるところに私たちの心もある」というものです。ですから、もしも子どもたちがこのシリーズに興味を示したなら、大人はそれを教育の機会と捉えれば良いと思います。自己犠牲、英雄的人生、友情の力などが出てきたら、拍手をすれば良いのです。

ただし、USJで売られている杖(3500!)を「これはボクのパワーアイテムだ」と思って普段から持ち歩くようになったらご用心。そうなると、これは、お守りやミサンガ、パワーストーン同様、造り主なる神への信頼を小さくする邪魔物です。呪文を初めとする魔術そのもの、或いはそれらが提示している世界観に焦点を合わせるのではなくて、作品に込められているメッセージ(テーマ)にこそ関心を払わせてやってください。

2014/08/03

議論のルール

フィンランドの小学生が作った「議論のルール」には当たり前のことが書かれてあります。

①他人の発言をさえぎらない
②話すときは、だらだらとしゃべらない
③話すときに、怒ったり泣いたりしない
④わからないことがあったら、すぐに質問する
⑤話を聞くときは、話している人の目を見る
⑥話を聞くときは他のことをしない
⑦最後まで、きちんと話を聞く
⑧議論が台無しになるようなことを言わない
⑨どのような意見であっても、間違いと決めつけない
⑩議論が終わったら、議論の内容の話はしない

いかがですか?すばらしいですよね。当たり前のことなのにすばらしい。そのように思える理由は何でしょう。それは、私たちの周りに余りにも多く、この十のルール(規則・規定・決まり)とは正反対の実態があるからではないでしょうか。それも「イイ歳をした大人」が幾つもの失態を引き起こしているように思います。例えば(特定の個人を誹謗中傷するつもりはありませんが)ある男性の議員たちが、違う党派とは言え、同じ議会の仲間である女性議員に野次を飛ばしました。その内容がその女性議員を傷つけるだけでなく、他の人々にも不愉快な思いをさせる言葉であったので、大きな問題となりました。なぜ、そういう言葉を聞かせるのかと言えば、要するに、自分の言葉を聞く人々への愛情が希薄だからではないでしょうか。

この点、フィンランドの小学生が作ったルールには、相手に対する愛情が詰まっていると思います。そして、この場合の「愛情」とは思いやりと言っても良いし、想像力、協調性、自制心、向上心、忍耐力、集中力、理性等々、いろいろな表現に置き換えられると思います。それだけに、会議や議論の場にだけ用いれば良いのではなく、私たちの日常生活全般において、特に子どもたちに対しては絶えず心掛けたいと願ってやみません。

まずは自分の家庭から。いや、まずは教会からご一緒に「議論のルール」を実践しましょう。

2014/07/16

ごきげんならいおん

2回にわたって『赤毛のアン』の訳者村岡花子さんが翻訳した絵本を紹介して来ました。今回はその最終回、三冊目です。

絵本『ごきげんならいおん』の舞台はフランスです。ある街の動物園に、いつもごきげんならいおんがいました。動物園は公園になっていて、行き来が自由にできました。そのため、飼育係とその息子を筆頭に、誰もが毎日らいおんに挨拶をしてくれます。お肉やいろいろなごちそうをくれもします。それでらいおんはいつもごきげんだったのです。

けれどもある朝、飼育係がらいおんの家の戸を閉め忘れてしまいました。そこでらいおんは、いつものお礼を伝えに出かけよう、と考えて、街の人々に挨拶をしに行くのです。すると街の人は大さわぎ(当然ですね)。例えば、動物園にいたときはニコニコしていたおばさんも、恐がって野菜の入ったカゴをらいおんに投げ付けました。それでも、ごきげんならいおんはゆったりと、街の人々を観察さえするのでした。そして「このまちのひとは みんな ばかなんだな」と理解するのです。消防車がかけつけ、隊員がライフルを構えても、らいおんは自分が置かれた状況を理解できずにおりました。

しかし、らいおん絶体絶命のその時、仲良しの飼育係の息子がやって来て、「やあ」と声をかけたのです。らいおんは、いつものように自分から話し掛けて来てくれる友を見つけてとてもごきげん。消防士たちを見物することも忘れ、男の子と一緒に動物園へ悠然と歩いて帰っていきました。

このらいおんの優雅さと、恐怖で騒ぎ立つ街の人々との対照的な姿が実に滑稽なのですが、もしも飼育係の息子が声をかけてくれていなかったら、らいおんはどうなっていたことか。らいおんだけではありません。わたしの命を救える方が、自分から近づき、歩み寄り、共に歩んでくださった、それゆえに、私どももまた今日あるを得ているのです。それがイエス=キリスト。わたしの、そして私どもの永遠の友なのです。

2014/06/04

アンディとらいおん

『赤毛のアン』の最初の邦訳者村岡花子さんが翻訳した絵本に『アンディとらいおん』という作品があります。アンディがある日、図書館でらいおんの本を借り、夢中になって読みふけります。それはアフリカでライオン狩りをする夢を一晩中見るほど興奮するものでした。すると翌朝、学校に行く途中、何と本物のライオンに出会うのです。アンディは驚きますが、そのライオンは足に太いとげが刺さっていました。それに気づいたアンディは(いつもズボンのポケットにくぎ抜きを入れていたので)ライオンの刺を抜いてやります。するとらいおんは大喜び。アンディをなめ回し、お互いに嬉しい心になって、その日は別れて行きました。

それから暫くしたある日。町にやって来たサーカスをアンディは観に行きます。すると芸当の真っ最中、一頭のライオンが檻から飛び出し、観客席目がけて突進して来るではありませんか。アンディは逃げ回りますが、とうとう飛び掛かられてしまいます。「もうおしまいだ」と思いましたが、実はそれはアンディが刺を抜いてやったあのらいおんだったので、ふたりは再会を喜び合いました。ところが、みんなはらいおんを生け捕りにしようとします。その時、アンディが言いました、「このらいおんをひどいめにあわせないでください!これは、ぼくのともだちです」と。

みんなを恐れさせた元凶を「友」と呼んでかばうアンディ。その姿にハッとしました。私たちはいかに自己中心的に友を限定していることでしょう。例えば、せっかく友だちになったひとを、自分の都合で遠ざけてはいないでしょうか。本当はアンディのように、友となったら最後まで、しかも相手が苦境に立たされた時にこそ味方でいる、それが友ではないでしょうか。

恐らく、ひとも社会も国も世界も、本当はそうあるべきなのです。そして、そうなれないなら、その理由、原因をこそ、解決しなければなりますまい。そこに動物ではない、人間の責任があるのではないでしょうか。

2014/05/04

いたずら きかんしゃ ちゅう ちゅう

『赤毛のアン』の訳者村岡花子さんが翻訳した絵本の中で恐らく最も有名なのはバートン作『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』でしょう。筆者も大好きな1冊です。ちゅうちゅうは黒光りした、かわいいきれいな機関車です(ドイツ語で「機関車」は“die”がつく女性名詞)。いつも小さな街の小さな駅から、大きな街の大きな駅へ走って行って、また戻って来るのが仕事です。けれどもある日、ちゅうちゅうは考えました、「わたしは、もう、あの重い客車を引くのはごめんだ。わたしひとりなら、もっともっと早く走れるんだ。そうしたら、きっとみんなが立ち止まって、わたしを眺めて―わたしだけを眺めて、言うでしょう。『なんて気の利いたかわいい機関車だろう!…』って」と。そして脱走。好き勝手に走り回り、町中の人や動物たちにとんでもない迷惑ばかりかけまくったのです。そして挙げ句の果てに袋小路の薮の中で燃料切れ。ついに暗闇と沈黙とに支配されました。

ところが、機関士や助手、車掌がちゅうちゅうを探し回り、その跡を辿ってちゅうちゅうを見つけ出し、連れ帰って行くのです。その結果、ちゅうちゅうは自分の持ち前の力を遺憾無く発揮できる持ち場が、小さな駅から大きな駅までの間であると知り、2度と逃げ出さないと決心するのでした。

わたしたちは「自分のことは自分が一番良く知っている」と思いがちです。しかし、それではきっとちゅうちゅうと同じように袋小路に入ります。もしも今、袋小路に在るなら、強がるのをやめましょう。そして自分を探し求めている呼び声を聞くのです。ちゅうちゅうに機関士たちがいたように、羊には羊飼いがあり、わたしたちには救い主イエス=キリストがおられます。この方が私を呼び、私にピッタリの持ち場に私を連れ帰り、そこで私を用いて下さるのです。そこは主と共に生きる場です。<わたし>はそこで生きるのです。

2014/04/08

村 岡 花 子

昨年の大河ドラマは『八重の桜』、今年は『軍師官兵衛』と、キリスト者が主人公の番組が続いています。もしかするとNHKに“その筋のひと”がいるのかも知れませんね。

ところで、朝の連続テレビ小説第90作『花子とアン』が始まりました。ボクは大好きな女優さんが主役なので欠かさず視るつもりですが、実はこのドラマの主人公花子もキリスト者です。

『赤毛のアン』の翻訳者として知られる村岡花子は、明治・大正・昭和にわたって波乱万丈の生涯を送りました。山梨の貧しい家に生まれ、現在の東洋英和女学院で英語を学び、山梨英和女学院で教師として働きました。その後、銀座の教文館で勤めながら翻訳家の道へ進み、震災や戦争を乗り越えて、子どもたちに夢と希望とを送り届けていきます。

戦後、日本中の若い女性たちの心をつかんだ『赤毛のアン』は、花子にとって生きた証とも言える作品でした。その主人公のアンのように、花子は明日に希望を抱きながら、信仰をもって生きたひとです。それは現在の日本基督教団大森めぐみ教会の信徒としての証しでもあったと言えるでしょう。

村岡花子の人生についての詳細は連ドラに譲りますが、調べてみて興味深かったのは、花子が翻訳した絵本で福音館書店から出版されている三冊です。バートン『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』、ド-ハーティ『アンディとらいおん』そしてファティオ『ごきげんならいおん』。来月以降、この三冊を「こひつじ」で取り上げていきます。どうぞお楽しみに。

2014/03/10

賤子(しずこ)と小公子

バーネットの児童小説“Little Lord Fauntleroy”を『小公子』と訳し、初めて日本に紹介したのは若松賤子というひとです。(「若松」が故郷会津の地名、賤子が「神のしもべ」を意味するペンネーム)

今から150年前(1864年4月6日)賤子は会津藩士の長女「松川甲子」(まつかわ・かし)として生まれました。幼少期から既に苦労の連続だったようですが、温かい親戚の大川家に養女として引き取られ、現在のフェリス女学院で学ぶことになります。その在学中、13歳で現在の日本キリスト教会横浜海岸教会で洗礼を受け、卒業後もそのままフェリスの教師になりました。そして25歳の時に巌本善治(いわもと・よしはる)と結婚。善治もキリスト者で『女学雑誌』を主宰しており、そこに賤子の翻訳で『小公子』が連載されたのです。しかし、折しも『小公子』が訳出、連載され始めた1890年(明治23)とは、大日本帝国憲法の施行年、教育勅語制定の年でした。そんな軍国主義の時代にも拘らず、賤子が所属していた横浜海岸教会は同年12月に「我らが神と崇むるイエス・キリストは、神の独り子にして、人類のため、その罪の救いのために、人となりて苦しみを受け、我らが罪のために、完き犠牲をささげたまえり。…」という言葉で始まる「信仰の告白」を謳ったのです。自分たちが神として礼拝するのはイエス=キリストであって、この方以外の何者をも神として崇めない、という表明です。そしてもちろん、教会員たる賤子もまた、この信仰に生きたのです。

残念なことに、賤子は心臓麻痺のために33歳で早世するのですが、夫善治には常々「葬儀は公にせず、伝記は書かず、墓にはただ賤子とだけ銘してください。人がもしきいたら、一生キリストの恩寵を感謝した婦人とだけ言ってください」と遺言していたそうです(高見沢潤子『二〇人の婦人たち』教文館)。そこには、フェリスの校長ブースに語ったと伝えられ、今でも生家に文学碑として残されている言葉と同じ響きを聴き取れると思います。

     「私の生涯は 神の恵みを 最後まで心にとどめた 
     ということより外に 語るなにものもない」若松賤子
                                            

2014/02/09

大雪の日曜日

横須賀にもたくさん雪が降りました。
大人たちは、雪掻きがたいへんでしたけど、子どもたちは雪に大喜びでした。
教会学校の生徒が、教会駐車場に雪だるまを作りました。

通行人から「かわいい!」の声と笑顔が広がりました。

2014/02/05

キリシタン 官兵衛

今年の大河ドラマは『軍師官兵衛』です。読者の中にもご覧になっている方があると思います。主人公の官兵衛は、本名を黒田孝高(くろだ・よしたか)と言います。信長や秀吉の家臣として仕えた賢い人でした。その才気煥発ぶりはドラマの中で楽しんで頂くとして、この「こひつじ」紙で注目したいのは、官兵衛が当時としては珍しく、妻を一人しか帯同しなかった、ということです。その理由として、多くの研究者たちは「彼がキリシタンであったからである」と考えます。

なるほど、と思いました。そう言えば、キリシタン大名であった高山右近や蒲生氏郷、小西行長も側室を持たず、やはり生涯ただ一人の妻だけを愛したひとたちでした。官兵衛も「死が二人を分かつまで一人の妻を愛する男、それがキリシタンたる夫である」と考えていたのでしょう。

主イエスが創世記を引用なさってこのように仰有っています、「…人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。…」(マタ19.5-6)と。元の言葉では「人」も「妻」も単数形で書かれています。つまり、主イエスの御心に適う夫婦一体のかたちは一夫一婦制であり、それが代々の教会で受け継がれてきたのです。

しかし、物の本によれば、官兵衛の妻櫛橋光(くしはし・てる)は浄土宗徒で、関ヶ原の合戦後、官兵衛がまだ生きている間に出家してしまいます。一般には妻が出家をするのは夫の死後でしたから、これは異例のことでした。しかも、光が出家した2年後に官兵衛は亡くなるのです。このような別れ方であった事を知り、私は胸を痛めずにはおれませんでした。
また、それだけに、「死が二人を分かつまで、同じ信仰を持って仕え合った(新島襄と八重のような)夫婦は何と仕合わせなことだろう」とも思った次第です。

2014/01/13

“ 十  戒 ”

昨年の4月から、教会学校の礼拝で十戒を唱和するようになりました。もうすっかり覚えてしまった方もあると思います。

「十戒」と訳された言葉は、元は“デカローグ”と言い、デカ(10)とロゴス(言葉)との合成語です。ですから「十の戒め」と言うよりも、本当は「十の言葉」と呼ばれるべきものなのです。

そのことを裏付ける一つの興味深い特徴は、十戒の元の言葉(ヘブライ語)の文体にあります。実は、それらは皆、日本語で訳出されているような「〜してはならない」という禁止や「〜せよ」という命令の言葉ではありません。「断言法」という文体に分類される珍しい文体なのです。例えば、1階集会室に掲げられている出エジプト記第20章3節の言葉を、その特徴を活かして直訳すると「あなたには、私の顔の上に、他の神々はあり得ない」となります。

何という言葉でしょうか。神さまが私たちを信頼なさっていなければ、こんな断言はできません。言い換えれば、神さまは私たちをまったく疑っておられない、ということなのです。そして、ここに明らかなように、愛とは本来、裏切りを予想しないのです。しかし、私たちが“愛”と呼んでいる愛情は、どれほど裏切りや疑いに満ちていることか。絶えない愛を受けていながら、いかに多くの他の「カミサマ」と呼ばれる類いに心が靡いていることか。それにも拘らず、神の愛は絶えないのです。そこに十字架が立ちました。

十戒は、この神の愛が全世界に、そしてこの私に注がれていることを明らかにする言葉です。寔に有り難い言葉です。さあ、愛誦しましょう!