2022/12/03

やまあらしぼうやのクリスマス

標記のタイトルは絵本の題名です(グランまま社、1996年)。1983年に初めて邦訳された版では『クリスマスのほし』と訳出されていました(聖文舎)。もちろん筋書きは同じですが、今回はその古い訳文に沿ってご紹介します。

ある年のクリスマス前。やまあらしのぼうやがおかあさんに言いました、「ぼくも クリスマスのげきに でたいよ」と。おかあさんは「(教会で)なかまに いれてもらいなさい」と促します。しかし、ぼうやは鏡に自分の姿を映してこぼしました、「ぼくのすがたは おかしいな。きつねさんみたいに ふさふさした けもないし うさぎさんみたいな ながいみみもないんだもの」と。するとおかあさんは「あなたは とっても かわいいよ。せなかの とげも まっすぐだし めも くるくるしているし。あなたは おかあさんの こころをてらす ひかりだよ」と言いました。ぼうやは嬉しくなって教会学校へ出かけます。そこでは他の動物の子どもたちがクリスマスの劇の相談をしていました。ぼうやはワクワクしながら「ぼくも げきに でたいんだけど」と言いますが、きつねもうさぎも他の子どもたちも、ぼうやの特徴を示しながら、君は何の役にもなれない、と拒否します。ついには「とげのゴムまり やーい」と囃し立てました。ぼうやはたまらず泣きながら家に帰り、おかあさんに「とげのゴムまり」と言われたことを伝えます。するとおかあさんは「あなたは りっぱに まくひきが できるでしょう。おそうじも ほかのだれよりも じょうずなのよ」と教えてくれました。

クリスマスの4日前、他の動物の子どもたちには役が決まりますが、ぼうやは部屋の隅で舞台作りに精を出します。3日前、皆は衣装をもらいますが、ぼうやは端切れや糸屑を掃除します。2日前、皆は練習に没頭しますが、ぼうやは大道具の配置に念を入れました。そしていよいよクリスマスの夜が来ました。本番前、「ツリーを たてろ! とげのゴムまり」と子どもたちが叫ぶと、ぼうやは急いでツリーを立てます。「ぶたいをきれいにして! とげのゴムまり」と言われると、ぼうやはすぐに掃除をしました。そしてぼうやが部屋の明かりを消し、舞台のライトをつけ、幕のロープを引き、劇が始まりました。たくさんの動物たちの家族が見守る中、子どもたちは演じます。ところが観客たちがざわつき始めました、「おほしさまが ないよ」「ほしがなければ はかせたちが あかちゃんイエスさまのところに やってこられないよ」と。舞台上で異変に気付いた子どもたちは大騒ぎです。「どうしよう どうしよう」。するとぼうやが大急ぎでツリーに駆け上がり、そのてっぺんでクルリと丸くなってみせたのです。観客席の大人も子どもも口々に言いました、「やあ なんてきれいな ほしでしょう」「ほしだ ほしだ」と。そうです、ぼうやのトゲトゲは星が放つ光そのものとなっていたのです。やまあらしのおかあさんはそんなぼうやを優しく見つめ、「わたしの こころの ひかり」と呼び、にっこり微笑むのでした。

保護者の皆さん、我が子の特徴がたとえトゲトゲで、それで人から嫌われ、馬鹿にされ、苛めの口実になったとしてもその特徴を問題視する必要はありません。親が子どもの個性を受け入れ、それを活かせる場があると信じて「あなたは とっても かわいいよ。…(わたしの)こころをてらす ひかりだよ」と言い聞かせれば大丈夫です。その時、子どもは安心して自分自身を受け入れ、その個性を見事に発揮します。トゲトゲは必ず活かされ、最大限に用いられることでしょう。その光景を幻に描きましょう。どの子も闇夜で輝き、人々を照らすクリスマスのほしに選ばれているのですから。神さま、バンザイ!

2022/08/01

プレゼントの経済学は正しいか?

プレゼント選びに頭を悩ました方は多いと思います。その悩みを解決すべく、経済学者のJ・ウォルドフォーゲルは、『プレゼントの経済学』の中で、こう主張しています。「他人がわれわれに…自分で選んだ場合と同じように気に入るものを選んでくれることは、まずありそうにない」。だから、ほとんどの場合、贈り物より現金をあげる方が、もらい手の効用を最大化してくれるのだ、と。実に合理的な主張です。しかし、この主張には、どこか違和を感じるのではないでしょうか。

その違和感の正体を、政治哲学者のM・サンデルは、『それをお金で買いますか』の中で、巧みに解き明かしてくれています。プレゼントの目的は、もらい手の効用の最大化に尽きるわけではない。実際、われわれは、友人からのプレゼントに、自分では買わない何かを期待する。それは、友情が、「他人とつきあうなかで人格や自己認識を成長させることにもかかわっている」からである。私の思いを超えた友人からのプレゼントが、私のアイデンティティを揺さぶり、結果的に私が自分でも知らなかった新しい私を発見する、人格的な交わりにはそういうことが起きるのだ、とサンデルは言いたいのだと思います。

ところで、祈りにおいて、私たちは、いろいろなことを神様に願います。そして、願ったものが願った通りに神から贈られてくることを期待します。しかし、願いがその通りにかなえられることは、むしろ稀でしょう。聖書にも、神様から、願ったものとは異なる意外なものが贈られてくるケースがいくつも出てきます。

モーセは、神様から「イスラエルの人々をエジプトから連れ出す」よう命じられたとき、「ああ主よ、どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」述べて、自分をそんな大役から免じてくださるよう願いました。神様は、「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束されるばかりで、モーセの願いを聞き入れてはくださいませんでした。しかし、イスラエルの民の指導者というこのモーセの思いを超えた神様のプレゼントは、モーセを大きく変えていきました。神様の導きによって、モーセは自分でも知らなかった自分を発見し、偉大な指導者へと成長していったのです。

パウロは、肉体に与えられた「一つのとげ」を取り去ってくださるよう「三度主に願い」ましたが、その願いはかなえられませんでした。しかし、かえってそのとげを、自分の思いを超えた神様からのプレゼントとして受け入れたときに、パウロは、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇る」べきだという見事な洞察に導かれました。その洞察が、彼の伝道者としての熱情に溢れた人生を支えたことは、言うまでもありません。

内村鑑三は、「聴かれざる祈祷」という小論の中で、こう書いています。「モーセもパウロも…聴かれし祈祷によってにあらず、聴かれざりし祈祷によって神に近づき神に関する最も深き事を知ることが出来たのである」。願ったものとは異なったものが贈られてくることで、私たちは、かえって神様を知ることができる。そして、そのことを通じて、新しくされた私を知ることができる。ここに、祈りが神様との人格的な交わりであると言われることの一つの意味があります。

2022/06/01

『セルコ』に見る兄弟愛

小麦の収穫の季節になると読みたくなる絵本があります。『セルコ』(内田莉莎子文、ワレンチン・ゴルディチューク絵/福音館書店)がその一つです。

セルコは老犬です。力はもう無く、ヨボヨボで、見た目にもみすぼらしい飼い犬でした。飼い主であるお百姓がある日、そんなセルコを役立たず呼ばわりし、お払い箱にしてしまいます。行く宛もないセルコは野原をうろつくしかありませんでした。すると、そんなセルコを見た一匹の狼が何を考えたのか、このような話を持ちかけて来てくれたのです、「どうだい。じいさん。しゅじんが また あんたを だいじにしてくれるように、おれが てをかそうじゃないか」。セルコは大喜びしますが、そのすべがわかりません。困惑しているセルコに狼は言いました。「むぎの かりいれが はじまる。あんたの しゅじんたちは、あかんぼを はたけの すみに ねかせて はたらくだろう。すきを ねらって、おれが あかんぼを さらう。そしたら、じいさん、あんたは おれを おっかけて あかんぼを とりもどすんだ。おれは あわてて にげるからな」。

刈入れが始まりました。お百姓とおかみさんは赤ん坊を置いてせっせと働きます。そこへ狼がやってきて、赤ん坊をさらって逃げ出しました。気が付いたおかみさんが悲鳴をあげると、そこへセルコが飛び出して、狼を追いかけて、たちまち赤ん坊を取り返し、お百姓とおかみさんの前へ置きました。お百姓は涙を流して言いました、「ああ、セルコ。ありがとう。おまえを おいだしたりして、すまなかった。ゆるしておくれ」。セルコがお百姓の家に帰ると、おかみさんは脂身たっぷりのたまご入り団子を煮て、セルコにご馳走を振る舞いました。「さあ、たべてくれ。はらいっぱい たべてくれ。もう にどと おいだしたりしないから、あかんぼの ばんを たのむよ」。そのように言われたセルコは「ああ、ともだちは ありがたい。どうすれば おおかみに れいが できるだろう」と、そればかり考えていました。

すると、願ってもない機会が訪れます。お百姓の上の娘が結婚するのです。たくさんのお客がお祝いに集まるとのこと。セルコはそこへ狼を呼び出しました。そしてその日になると、お百姓の家は暗くなっても飲めや歌えの大騒ぎです。テーブルの上には見たこともないような大ご馳走が並んでいました。セルコは狼をそっとテーブルの下へ忍び込ませ、肉やらチーズやら御馳走をかすめ取り、テーブルの下へ持ち込みます。それを見つけたお客がセルコを叩こうとしますが、飼い主が「やめてください。セルコは うちの むすこの いのちの おんじん。たいせつな いぬなのだから」と言って止めました。セルコにとってはこの上ない喜びです。一方、テーブルの下の狼はお酒まで飲んですっかりご機嫌。「ああ、まんぷく まんぷく。なんだか うたいたくなったよ」と低い声で唸り出しました。驚いたセルコが「とんでもない、やめてくれ!」と止めましたが、狼は我慢できず、気持ちよさそうに「ウォホホ ウォホホ〜ン ウォーウォ ウォオオ〜ン」と鳴きました。お客たちはびっくり仰天、悲鳴を上げて逃げ回り、結婚披露宴は台無しです。しかしセルコは、狼の最初のアイディアを準用し、オオカミに飛びかかり、ぐいぐいと家の外へ追い出して、野原まで連れて逃げました。そして狼に「きょうだい。これで このあいだの おれいが できた。げんきでな」と言うのです。二匹は抱き合って別れます。恐らく、互いの存在を喜び合いながら。

これはウクライナの昔話で、友情を異種間交流によって描いている逸品です。この絵を担当されたワレンチン・ゴルディチューク(Gordiychuk,Valentin)氏は1947年、ウクライナの首都キーウのお生まれ。国立キーウ芸術大学や当時のソ連芸術アカデミーでも学び、ロシアの著名な芸術家たちにも師事されました。ウクライナ内外の多くの展覧会に出品したり、モスクワやキーウの出版社で挿絵などを手がけたりして高い評価を得た方です。きっと当時のゴルディチューク氏はロシア人を「きょうだい」と呼び、誇りにしていたことでしょう。そのように、両国の人々が互いの存在を喜び合える日が再び訪れることを願ってやみません。心から。

2022/02/02

放蕩息子の兄

山本周五郎に「鼓くらべ」という短編があります。ストーリーを紹介してみましょう。加賀の国では、新年に「鼓の上手を集め、御前でくらべ打ちを催して、ぬきんでた者には賞が与えられる」ことになっていました。お留伊は、ライバルのお宇多に勝つために、離れで小鼓の稽古に励んでいました。そのとき、庭に人の気配を感じます。誰何すると、一人の老人が姿を現しました。そして、「お鼓の音のみごとさに、つい庭先に誘われた」と言うのです。老人は、翌日も現れました。親しさを感じ始めたお留伊は、色々な話しをするようになります。

やがて老人は、死の床に着きます。そして、お留伊を呼んで、こんな話をしました。十余年前、市之亟と六郎兵衛という二人の名人がいた。御前での鼓くらべは、二人の大勝負になったが、市之亟が勝った。しかし、市之亟はなぜか二度と「鼓は持たぬと誓って、何処ともなく去った」と言うのです。そして、こう諭しました。「人と優劣を争うことなどはおやめなさいまし、音楽はもっと美しいものでございます」。

しかし、いくら諭されても、賞を受ける自分を想像すると、誇らしさに身が震えるお留伊でした。左にお留伊、右にお宇多が座を占めて、鼓くらべが始まります。お留伊の鼓は、見事に鳴り響きました。ライバルを見やったお留伊の眼に映ったのは、「どうかして勝とうとする心をそのまま絵にしたような、烈しい執念の相」を示すお宇多の顔でした。そのときです。お留伊は、あの老人が市之亟その人だったことに気づくのです。お留伊の右手がはたと止まります。客席には動揺が広がりますが、お留伊には、「老人の顔が笑いかけて呉れるように思え、今まで感じたことのない、新しいよろこびが胸に溢れて来」るのでした。

お留伊は、お宇多の中に、賞に囚われて、音楽と共にあることそれ自体を喜べなくなっていた自分の姿を見たのでしょう。この物語は、そのような呪縛から解き放たれたとき、お留伊に起きた変化を巧みに伝えてくれています。

ところで、ヘンリ・ナウエンは、『放蕩息子の帰郷』という本の中で、イエス様が語ったこの有名な譬え話を、弟よりも兄に注目して、読み解いています。家に留まった兄こそ、弟以上に失われた者となっていると言うのです。兄は、外面的には、父に忠実な良い息子でしたが、「内面においては、父から離れ、さまよい出て」いました。兄は、帰って来た弟を歓待する父に、こう不満を漏らします。「わたしは何年もお父さんに仕えています。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」。兄は、長く父と共にいたはずなのに、そのこと自体を喜んでいません。父に仕えることが、報いを得るための義務のようになってしまっているのです。そして、ナウエンは、神と共にあることそれ自体を喜べなくなることは、この兄のようにまじめなクリスチャンにこそ起りがちなことだと言うのです。

では、どうすればよいのでしょうか。回復への道は、すでに父なる神が整えてくださっています。父は、何の見返りも求めず、兄弟と共にあることそれ自体を喜んでいたのでした。何よりも、この「父がわたしに差し出す無条件の愛、そして、赦す愛を受け取」ることです。受け入れられていることを受け入れ、「報いを得たいという関心から解放されて行動するごとに、わたしの人生は、神の霊による真の実を結ぶ」、そうナウエンは述べています。