2021/12/03

星を動かす少女、再び

クリスマスが近づいてくると私には幼い頃(日曜学校時代)に経験したページェント(主イエスの降誕劇)が懐かしく思い出されてきます。主イエスの母マリア、天使ガブリエル、父親に選ばれたヨセフ、そして羊飼いや東方の占星術の学者たちなど、幾人もの登場人物があり、それぞれに定番の歌やセリフがありました。私も十数年間で幾つもの役を経験しましたが、何が嬉しいかと言って教会の大人たちが劇を喜び、誰が何の役であろうと終演後に子どもたちをほめてくれることでした。

このページェントにまつわるステキな詩を(再び)紹介しましょう(201312月号掲載)。旧約聖書学者でもあった松田明三郎牧師(1894-1975)がご自分の担任教会での出来事を題材にしてお作りになった「星を動かす少女」という詩です。

  「星を動かす少女
クリスマスのページェントで、
日曜学校の上級生たちは
三人の博士や
牧羊者の群や
マリヤなど
それぞれ人の眼につく役を
ふりあてられたが、
一人の少女は
誰も見ていない舞台の背後にかくれて
星を動かす役があたった。

 「お母さん、
  私は今夜星を動かすの。
  見ていて頂戴ね――」

その夜、堂に満ちた会衆は
ベツレヘムの星を動かしたものが
誰であるか気づかなかったけれど、
彼女の母だけは知っていた。
そこに少女のよろこびがあった。

誰一人として関心を注がない舞台裏で、少女がただ母親に知られていることを喜びながら、健気に星を動かす姿が脳裏に浮かんできます。私には、この母親の眼差しが、神さまが私たちに注いでくださっている愛の眼差しと重なっているように思えるのです。「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする」(イザ43.4)。

愛の眼差しを注いでくださる神さまは、独り子キリストを救い主として世にお遣わしになり、ご自身の愛を最も明らかに、確かに示してくださいました。自分を愛してくれる人がいる、愛してくださる神さまが生きて働いておられる。この事実を喜ぶ喜びが皆さんとそのご家庭にも豊かに宿りますように。

クリスマス、おめでとう

2021/08/01

交換か贈与か

若者の間では、「ボランティア」活動が、空前のブームだそうです。確かに、交通費を自己負担して、被災地に赴き、そこで被災者のために汗を流す若者の姿がよく報道されたりもしています。しかし、同じ社会貢献でありながら、不思議なことに、「献血」は人気がなく、若者の深刻な献血離れが進んでいるのだそうです。ともに利他的な行動に見える両者に、極端な人気の違いが生じているのはなぜなのでしょうか。

どうやら、それは、ボランティアなら「ありがとう」という相手からの感謝がすぐに返ってくるのに対して、献血はそれが誰の役に立っているのかが見えにくいから、という理由らしいのです。この点を踏まえて、『世界は贈与でできている』という著書の中で、近内悠太は、こう書いています。「「感謝というレスポンス」が直ちに返ってこないと贈与ができないというのは、もはや贈与ではありません。それは、贈与に見せかけた「交換」でしかありません」。つまり、ボランティアは、「贈与」ではなく、見返りを求める「交換」にすぎないというのです。自分が若者だった頃と比べれば、ボランティア活動に精を出す若者は、十分に立派なのですが、近内の批判にも一理あるように思います。

ところで、キリスト教に対するもっとも手強い批判者の一人に哲学者のニーチェがいます。私見では、ニーチェのキリスト教批判のポイントは、次の点にあります。イエスは、人間の罪を代わりに償うことによって、人間に「負い目=負債」を負わせた。負債を返すには、その見返りとしてキリスト教を信仰するしかない。つまり、キリスト教は、「贈与」の見せかけをとりながら、巧みに信者に負い目を負わせ、負債を返すよう強いる「交換」の論理によって成り立っていると言うのです。

この批判は、当たっているでしょうか。私は、的を外しているのではないかと思います。というのも、イエス様が人間の罪を引き受けたのは、負い目を押し付けるためではなく、「負債はもう返さなくてよい」と宣言するためだったからです。イエス様の犠牲は、どこまでも人間に対する「贈与」としてなされたと解されるべきでしょう。負い目からお返しをするのではなく、無償で贈与された喜びから、人がまた次の人へと贈与をつないでいくこと。見返りを求めず自らの命を贈与することでイエス様が起動させようとされたのは、そのような「贈与のリレー」ではなかったかと思うのです。

私はあなたに愛のパスを出す。でも、そのパスを、直接、私に返して、「交換」に終わらせないでほしい。愛のパスを隣人に出して、「贈与のリレー」をつないでほしい。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というよく知られたみ言葉は、イエス様のそのようなメッセージを示してはいないでしょうか。

2021/06/01

パンのかけらとちいさなあくま

ちょうど今の季節に読みたくなる絵本があります。できることなら麦秋を愛でながら読み聞かせたい『リトアニア民話パンのかけらとちいさなあくま』(内田莉莎子再話、堀内誠一絵/福音館書店)です。
小さな悪魔がおりました。ある日、森の奥で働く貧しい木こりの弁当(パンのかけら)を盗み、持ち帰ってしまいます。そして悪魔の住みかでその悪事を得意顔で報告したのですが、これが大きな悪魔たちをカンカンに怒らせてしまいました。「なんてヤツだ!貧乏な木こりの大事な弁当じゃないか。さ、今すぐ謝りに行け。お詫びのしるしに木こりのために働いてこい。何か役に立つことをやって来い。それまでは帰って来るな!」。小さな悪魔はしょんぼりして木こりの所へ戻ります。「木こりさん、ごめんなさい。ぼくはあなたの大事なパンを盗みました。ほんとにごめんなさい。お詫びに何かさせてください」。優しい木こりは「パンを返してくれればそれで結構」と言い、笑って帰そうとしましたが、小さな悪魔は「それでは困るんです。どんなことでもやりますから、何か言い付けてください」と言って泣き出してしまいました。驚いた木こりは考え込み、地主が所有する沼地に悪魔を連れて行きました。そして「この沼を麦畑に変えることができるかい?」と尋ねると、小さな悪魔は「できます、できます」と答えます。木こりが地主に頼んでみると、地主は呆れて笑いながら「好きなようにやってみろ」と言いました。そこで小さな悪魔は本領発揮。まさに悪魔的な力で泥沼をたちまち開墾してしまいます。すると驚く木こりも手伝って、二人は見事、泥沼を麦畑に変えたのでした。
ところが「さあ、今度は刈入れだ」という時、地主が作男を率いて来て、実った麦穂を全部持って行ってしまいました。「沼を麦畑にして良いと言ったが、お前にやるとは言わなかった」というのが理由です。しかし、小さな悪魔は才気煥発、「せめてたったひと束でいいから麦を分けてやってくれませんか」と頼みます。地主は痩せた小さな悪魔の哀しそうな顔を見て、「一束くらいはくれてやる」と笑いながら言いました。すると小さな悪魔は木こりのところへ飛んで帰り、とてつもなく長い縄を二人で一所懸命縒るのです。そしてその長い縄で、納屋にあるだけの麦を一束にまとめました(さすが悪魔!)。それを見た地主はビックリ仰天。が、すぐさま身勝手にも激怒して牡牛に襲い掛からせようとします。しかし小さな悪魔は牡牛たちをひょいひょいとつかまえ、牛の背中に納屋いっぱいの麦を乗せ、全部持ち帰ってしまいました(やっぱり悪魔!)。それを見た地主はひっくり返って死んでしまったのでした。
小さな悪魔は大量の麦に牡牛数頭のおまけをつけて、木こりに渡して言いました、「これでボクがあなたの大事なパンを盗んだの、赦してもらえますか」と。すると木こりは感激して「当り前だ」と言って泣き、夫婦揃って喜んで「ありがとう、ありがとう」とまで言ってくれました。小さな悪魔は嬉しそうに笑いながら言いました、「ああ、良かった。これでうちへ帰れます。それじゃ元気でね、木こりさん」と。
物語はこれで終わりですが、この絵本の画家堀内誠一さんは最後のページにステキな場面を描いておられます。それは影絵風に描かれていて、住みかに戻った小さな悪魔が大きな悪魔たちにほめられて、頭をかいている後ろ姿です。大きな悪魔たちが笑っているのも良く分かります。こういう“うち”っていいですよね。
もちろん盗みは良くないことです。でも、過ちは盗みだけではなく、他にもたくさんあるでしょう。そういう過ちを、ただの一度も犯さないでいる子どもがいるでしょうか。寧ろ過ちや失敗を何度も重ねて子どもは成長するのではないでしょうか。また、その子どもを見守る大人も、そんな子どものお陰で成長できるように思います。大事なことは、自分の“うち”に規律と赦しとがあることです。そこで育まれた子どもたちは、きっと安心して“うち”に帰って来ることでしょう。教会もそんな“うち”の一つです。

2021/04/04

牧師メッセージ(ヨハネによる福音書 20.24-29 より)

イエスさまがよみがえられ、弟子たちに現れてくださったのは日曜日の夕方でした。けれどもその時、トマスは一人で出掛けていて、イエスさまに会えませんでした。そこでトマスが戻って来た時、他の弟子たちが「わたしたちはイエスさまを見た」とトマスに伝えます。ところがトマスは「イエスさまの手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言うのです。本当はトマスだって信じたかったのかも知れません。しかし、自分が納得できる仕方でなければ信じようとはしなかったのです。

するとその次の日曜日、イエスさまは再び現れてくださいました。そしてご自分の体をトマスに見せながら「あなたの指をここに当てなさい」、「あなたの手をここに入れなさい」とおっしゃいます。トマスは本物のイエスさまであると知り、他の弟子たちさえ言わなかった言葉でお答えしました、「わたしの主、わたしの神よ」と。

どんなに疑い深い人であっても、イエスさまの弟子に選ばれた人には、この信仰がちゃんと与えられるのです。この物語はそのことを明らかにしています。

教会に来るようになっているあなたは、もうイエスさまの弟子に選ばれた人です。たとえ目でイエスさまを見られなくても「見ないのに信じる人は、幸い」なのです。さあ、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。

2021/02/01

イエス様のメタメッセージ

コミュニケーション理論が与えてくれる知見の一つに「メタメッセージ」というものがあります。「メタ」というのは、「超」とか「一段階上」という意味なので、メタメッセージとは、メッセージの解読の仕方を示す一段階上のメッセージということです。私たちの発するメッセージには、それをどう解読するかを示すメタメッセージ——たいていは非言語的な——がつねに伴っているというのです。

なんだかややこしそうな話ですが、実は私たちが日常のコミュニケーションの中で、ごく普通に行っていることです。たとえば、「バカ」というメッセージのもつ意味は、いがみ合っている相手からの睨みつけるような視線というメタメッセージと共に送られた場合と、恋人からのコケットリーな目くばせというメタメッセージと共に送られた場合とでは、まったく正反対の解読結果になることは明らかでしょう。

では、このメタメッセージという知見を使うと、人の心に届く言葉と届かない言葉の違いは、どこにあると考えられるでしょうか。

今ではパワハラ認定されかねないので、あまり見かけなくなりましたが、少し前までは、勤務時間後に、居酒屋で、上司が部下に対して説教をしている場面をよく目にしました。こうした場面で語られる言葉は、届かない言葉の代表例でしょう。語られる内容にそれなりの妥当性があっても、どれほど熱く語っても、その言葉は部下の心には届きません。なぜなら、相手に対する敬意を欠いた上から目線というメタメッセージと共に語られたそれらの言葉は、単に自分が上位者であることを誇示し、マウントを取るためだけの言葉として解読されるからです。

柔和なイメージの強いイエス様も、ときに弟子に対してまことに厳しい叱責をされることがありました。ペトロは、イエス様から「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とまで言われています。一見、上司の説教より強烈な罵倒の言葉です。しかし、その言葉には、「私はあなたを愛している。だから、私があなたを変えてみせる」というメタメッセージが伴っていました。それゆえ、たとえ一時、誤解されることがあっても、イエス様の言葉は、間違いなく弟子たちの心に届き、彼らを変えていったのです。

イエス様のお語りになる言葉は、ときに難解です。簡単には理解できないものも少なくありません。しかし、その言葉には、つねに「この言葉は大切なあなたへのメッセージなのだ。だから、私は、愛するあなたに何としてもこの言葉を届けるのだ」というメタメッセージが伴っています。それゆえ、たとえ今はそれが理解できなくとも、このメッセージが理解できる私へと成長したいという思いへと私たちは導かれるのです。

イエス様の発されるすべてのメッセージの背後には、一つの例外もなく、「私はあなたを愛している」というイエス様の命をかけたメタメッセージが鳴り響いています。そして、これが届く言葉の真骨頂なのです。