2022/08/01

プレゼントの経済学は正しいか?

プレゼント選びに頭を悩ました方は多いと思います。その悩みを解決すべく、経済学者のJ・ウォルドフォーゲルは、『プレゼントの経済学』の中で、こう主張しています。「他人がわれわれに…自分で選んだ場合と同じように気に入るものを選んでくれることは、まずありそうにない」。だから、ほとんどの場合、贈り物より現金をあげる方が、もらい手の効用を最大化してくれるのだ、と。実に合理的な主張です。しかし、この主張には、どこか違和を感じるのではないでしょうか。

その違和感の正体を、政治哲学者のM・サンデルは、『それをお金で買いますか』の中で、巧みに解き明かしてくれています。プレゼントの目的は、もらい手の効用の最大化に尽きるわけではない。実際、われわれは、友人からのプレゼントに、自分では買わない何かを期待する。それは、友情が、「他人とつきあうなかで人格や自己認識を成長させることにもかかわっている」からである。私の思いを超えた友人からのプレゼントが、私のアイデンティティを揺さぶり、結果的に私が自分でも知らなかった新しい私を発見する、人格的な交わりにはそういうことが起きるのだ、とサンデルは言いたいのだと思います。

ところで、祈りにおいて、私たちは、いろいろなことを神様に願います。そして、願ったものが願った通りに神から贈られてくることを期待します。しかし、願いがその通りにかなえられることは、むしろ稀でしょう。聖書にも、神様から、願ったものとは異なる意外なものが贈られてくるケースがいくつも出てきます。

モーセは、神様から「イスラエルの人々をエジプトから連れ出す」よう命じられたとき、「ああ主よ、どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」述べて、自分をそんな大役から免じてくださるよう願いました。神様は、「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束されるばかりで、モーセの願いを聞き入れてはくださいませんでした。しかし、イスラエルの民の指導者というこのモーセの思いを超えた神様のプレゼントは、モーセを大きく変えていきました。神様の導きによって、モーセは自分でも知らなかった自分を発見し、偉大な指導者へと成長していったのです。

パウロは、肉体に与えられた「一つのとげ」を取り去ってくださるよう「三度主に願い」ましたが、その願いはかなえられませんでした。しかし、かえってそのとげを、自分の思いを超えた神様からのプレゼントとして受け入れたときに、パウロは、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇る」べきだという見事な洞察に導かれました。その洞察が、彼の伝道者としての熱情に溢れた人生を支えたことは、言うまでもありません。

内村鑑三は、「聴かれざる祈祷」という小論の中で、こう書いています。「モーセもパウロも…聴かれし祈祷によってにあらず、聴かれざりし祈祷によって神に近づき神に関する最も深き事を知ることが出来たのである」。願ったものとは異なったものが贈られてくることで、私たちは、かえって神様を知ることができる。そして、そのことを通じて、新しくされた私を知ることができる。ここに、祈りが神様との人格的な交わりであると言われることの一つの意味があります。