2021/08/01

交換か贈与か

若者の間では、「ボランティア」活動が、空前のブームだそうです。確かに、交通費を自己負担して、被災地に赴き、そこで被災者のために汗を流す若者の姿がよく報道されたりもしています。しかし、同じ社会貢献でありながら、不思議なことに、「献血」は人気がなく、若者の深刻な献血離れが進んでいるのだそうです。ともに利他的な行動に見える両者に、極端な人気の違いが生じているのはなぜなのでしょうか。

どうやら、それは、ボランティアなら「ありがとう」という相手からの感謝がすぐに返ってくるのに対して、献血はそれが誰の役に立っているのかが見えにくいから、という理由らしいのです。この点を踏まえて、『世界は贈与でできている』という著書の中で、近内悠太は、こう書いています。「「感謝というレスポンス」が直ちに返ってこないと贈与ができないというのは、もはや贈与ではありません。それは、贈与に見せかけた「交換」でしかありません」。つまり、ボランティアは、「贈与」ではなく、見返りを求める「交換」にすぎないというのです。自分が若者だった頃と比べれば、ボランティア活動に精を出す若者は、十分に立派なのですが、近内の批判にも一理あるように思います。

ところで、キリスト教に対するもっとも手強い批判者の一人に哲学者のニーチェがいます。私見では、ニーチェのキリスト教批判のポイントは、次の点にあります。イエスは、人間の罪を代わりに償うことによって、人間に「負い目=負債」を負わせた。負債を返すには、その見返りとしてキリスト教を信仰するしかない。つまり、キリスト教は、「贈与」の見せかけをとりながら、巧みに信者に負い目を負わせ、負債を返すよう強いる「交換」の論理によって成り立っていると言うのです。

この批判は、当たっているでしょうか。私は、的を外しているのではないかと思います。というのも、イエス様が人間の罪を引き受けたのは、負い目を押し付けるためではなく、「負債はもう返さなくてよい」と宣言するためだったからです。イエス様の犠牲は、どこまでも人間に対する「贈与」としてなされたと解されるべきでしょう。負い目からお返しをするのではなく、無償で贈与された喜びから、人がまた次の人へと贈与をつないでいくこと。見返りを求めず自らの命を贈与することでイエス様が起動させようとされたのは、そのような「贈与のリレー」ではなかったかと思うのです。

私はあなたに愛のパスを出す。でも、そのパスを、直接、私に返して、「交換」に終わらせないでほしい。愛のパスを隣人に出して、「贈与のリレー」をつないでほしい。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というよく知られたみ言葉は、イエス様のそのようなメッセージを示してはいないでしょうか。