2024/02/04

無力の力

日本でも、薬物依存やアルコール依存は、大きな社会問題になっています。どうすれば、そのような依存症から抜け出すことができるのでしょうか。すぐに思いつくのは、薬物やアルコールを断とうとする強い気持ちが大切だということです。実は、第三者だけでなく、依存者自身も多くがそう考えています。依存者自身が、意志の力を総動員し、自分をコントロールしなければならないと信じているのです。でも、本当にそれが解決策なのでしょうか。

アルコホーリクス・アノニマスというグループがあります。アルコール依存症からの回復を目指す患者たちの自助グループです。メンバー数は200万人を超え、大きな成果をあげているそうです。興味深いのは、彼らの向かう方向が、先に見た解決策とは真逆だということです。自己コントロールを手放すことこそが、回復への第一歩だというのです。『人間の生のありえなさ』という本の中で、脇坂真弥さんは、そのことをこう表現しています。「彼らが酒に勝つ可能性はまったくない。しかし、逆に「酒に勝つ可能性は皆無だ」と心から知ることが、彼らの唯一の回復の可能性である」。

にわかには受け入れがたい逆説です。どういうことなのでしょうか。「私は負け犬ではない」というプライドが打ち砕かれ、「本当の自分の姿を目の当たりにする」瞬間は、「底つき」と呼ばれています。そして、この底つきにいたったとき、依存者は、「自分を衝き動かしていた狂気の本当の意味を悟」ります。「自分が求めていたのは酒ではなく、酒という形でしか—酒との戦いにおける必然的敗北を通じてしか—触れることができない「自分を超えた大きな力」だった」ことに気づくのです。完全な敗北の認識が、そのまま霊的経験につながっているというわけです。そして、そこから、「大きな力」の配慮に自らを委ねる回復への道が始まるのです。

ここで思い出されるのは、ペトロの人生の軌跡です。ペトロには、自分がイエス様の一番弟子だというプライドがありました。だから、イエス様が弟子たちに、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」といわれたとき、ペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と大見得を切ったのです。しかし、ユダの裏切りにあい、イエス様が逮捕されると、ペトロも含めて、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」のでした。

確かにペトロは、その後もイエス様のことを心配して、イエス様が捕らわれている大祭司の屋敷まで様子を伺いに出かけています。しかし、女中の一人に「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と声をかけられると、イエス様が予告された通り、「そんな人は知らない」とウソをついたのです。ペトロは、イエス様の言葉を思い出し、「外に出て、激しく泣いた」と聖書は伝えています。私は、これが、ペトロの底つきの瞬間だったのだと思います。自分の無力さを自覚するとともに、その自覚へと導いてくれたのが「自分を超えた大きな力」であることも知ったのです。ここがペトロの転換点になりました。

殉教も辞さない強い弟子に成長するためには、まず徹底して自らの無力さを知る必要がありました。そして、そんな自分が神様に支えられていることを知る必要がありました。ペトロにとって、それこそが神様をお迎えするもっとも大切な心の準備だったのです。

2023/12/03

クリスマスの飾り

クリスマスが近づくと、ドアや壁などに掛けるお馴染みの輪飾り。そう、クリスマスリースです。このリースの発祥はギリシャ時代にまでさかのぼることができるそうで、当時のリースは結婚式や春のお祭りなどのお祝いの席に飾られました。続くローマ時代には新年に親しい者同士で互いの健康を祈って贈り合い、玄関に飾ったようです。そして意外にも、このリースのクリスマスグッズとしての歴史は浅く、クリスマス専用のリースが生まれたのは19世紀初頭と言われています。1130日に最も近い日曜日、つまり降誕前節第四主日になって(アドベントが始まって)から飾り、公現日(翌年16日)を過ぎたら片付けられました。

このリースの材料には一般に常緑樹が使われます。ツタを丸めて土台を作り、ヒイラギやモミなど常緑樹の枝葉で覆い、松ぼっくりなどの木の実で飾り付けるのが一般的です。そしてこのリースを机の上に横向きに置いて(もしくはリボンで天井から水平に吊るし)ロウソクを4本立てるとクランツになります。リース同様、これも降誕前節第四主日に飾られ始めますが、日曜日を迎えるごとにロウソクに火が灯されます。この降誕前節はアドヴェントとも呼ばれます。到来を意味するラテン語、アドヴェントゥス(adventus)に由来する言葉で、救い主イエス=キリストの誕生を待ち望んだ旧約の民の心を再認識する期間です。また、その救いが罪からの救いであることから罪の自覚が求められ、そのために、イエス=キリストが十字架につけられる時に着せられた服の色である紫をアドヴェント・クランツのロウソクの色とするのです。

アドヴェント・クランツは19世紀のドイツで始まったと言われています。ドイツでJ.H.ヴィヒャーンがハンブルクにある子どもたちの施設「ラウエス・ハウス」(粗末な家)で初めて行い、当時はクリスマスまで毎日1本ずつロウソクを灯したそうです。1860年以後、ベルリンのテーゲルの孤児院にも伝わり、次第に広まって行きました。クランツはドイツ語で「冠」の意味で、イエス=キリストが王として来られることを、尊敬と崇拝の意をもって待ち望むことを現わします。

このクランツに立てられる4本のロウソクの内、1本だけバラ色(ピンク)にすることがあります。これは降誕前節第三主日のロウソクで、暦の上では「ガウデーテの日」と呼ばれている日に使われます。「ガウデーテ」は「喜びなさい」という意味のラテン語で、降誕前節第三主日の礼拝を始める時に読まれる聖書日課、フィリピの信徒への手紙第44節「主において常に喜びなさい」の冒頭の言葉です。バラ色のキャンドルは紫で示されていた悔い改めの意味を和らげ、喜びの日が近づいていることを示しているそうです。そして4本目のキャンドルが灯された後、教会によっては1224日のクリスマスイブに、ロウソクをすべて神の栄光を表す白に換え、救い主イエス=キリストの誕生により暗闇の世界に光が灯されたことを示すのです。

このように、クリスマスの習慣一つ一つに意味があるのですが、その通りにしなければならない、ということではありません。信仰者たちが歴史の中で受け継いできたクリスマスの本当の喜びを心に留めて過ごすために、一つ一つの意味を覚えておく工夫に過ぎません。でも、それがアドヴェント、クリスマスを有意義に過ごすコツでもあると思います。

ちなみに常緑樹を(永遠を意味する)輪にせず、花束を縛って吊り下げた飾りはスワッグ(ドイツ語で「壁飾り」)、ロープのように壁に張り巡らせたり、ドアや額の周りに貼ったりする花飾りはガーランド(英語で「花輪、花冠」)と呼ばれます。そのいずれにおいても常緑樹の緑は命を、白は神の栄光の輝きを、ポインセチアなどの赤はキリストが十字架で流された血潮を示す、とされます。会堂内に入られたら、礼拝やキャンドルサービスのメッセージに「命」「栄光」「十字架」などのキーワードを探してみてください。きっと、飾付けを見る以上の喜びが皆さんの心に溢れることでしょう。

2023/08/01

天才か使徒か

「民藝運動」をご存じでしょうか。1926年に柳宗悦たちが「日本民藝美術館設立趣意書」を発表したことが、この運動の始まりとされています。一般的には「手仕事によって生み出された日常づかいの雑器に美を見出そうとする運動」と説明されますが、この運動が推し進めようとした「美」の見方の転換は、キリスト者にとっても学ぶところの多いものです。

私たちは、特別な才能を持った天才が、その個性を存分に発揮して作り出した作品に、美が宿ると考えているのではないでしょうか。そうした作品は、貴重で高価ですから、とうてい日常づかいにはなりません。また作品は個性の表現ですから、私たちは、誰の作であるかを示す「銘」を過剰にありがたがります。ともすれば「器そのものを見ているのではな」く、「名を贖」うような倒錯さえ生じるほどです。

これに対して、「民藝美の一つの著しい特質はそこに個性癖が見えない点」にあります。無名の職人が、人々の用に仕える器を作り出そうとして、「自然な材料」を用い、「自然な工程」に従い、「素直な心」で作業にいそしむとき、そこに無心の美が宿ると柳は言います。人々の用に仕えるために「多く作られ安くできる日常品」の中に、かえって自我へのこだわりから解き放たれた「無我的な超個人的な美が示される」と言うのです。柳は、人間が個性を超克して、無心になり、自然を映し出すところに美を見出そうとしているのです。

ところで柳は、「信の法則と美の法則とに変わりはない」とも書いています。「よき信仰」も「主我の世界にはなく、没我の世界にのみ現れる」からです。とすれば柳の議論が、哲学者のキルケゴールが「天才と使徒との相違について」という小論の中で述べていることと符合することに不思議はないでしょう。「天才は自分自身によって、すなわち、自分自身の内にあるものによって、その在るところのものである。使徒は神からの権能によってその在るところのものである」。これが、天才と使徒との決定的な違いです。パウロの才気や明敏や比喩の豊かさをほめ、彼を天才と見なす人がいます。しかしそれは「パウロには迷惑なこと」に過ぎないとキルケゴールは言います。そしてそんな人に、パウロならこう答えるだろうと言うのです。「君の心にしかととどめてもらいたいのは、わたしの語ることは啓示によってわたしに委託されたものだということ、だから語っておられるのは神ご自身あるいは主イエス・キリストであるということである」。

ここで思い出されるのは、カルヴァンが、彼の聖書理解に基づいて形成された一派に「カルヴァン派」という個人名を冠することを許さず、「改革派」という信仰の姿勢を示す名称を用いたことです。カルヴァンは、墓碑を作ることも許しませんでした。自分が神格化されてしまうことを恐れたからです。もちろんツヴァイクが『権力とたたかう良心』で辛辣に描いたように、カルヴァンの生涯にはいくつもの過ちがありました。だからカルヴァンも聖人などではなく、一人の罪人に過ぎません。しかしカルヴァンが、「実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(マコ13.11)というみ言葉に忠実に神の器として生きようとしたことは間違いないでしょう。カルヴァンは、天才として自らの名を残すことの「栄光」より、使徒として生きることの「光栄」をよく知っていたのです。

2023/06/11

パスポートになりませんか?

20233月、『ちきゅうパスポート』という旅行券が販売されました(日本国際児童図書評議会/BL出版)。本物のパスポートのように名前や誕生日を書く欄もあります。表紙には「えほん作家から地球の子どもたちへ」と銘打たれ、その裏には「わたしたち地球のえほん作家は、このパスポートの持ち主である子どもが、地球を自由に移動できるようにし、必要な場合にはいつでも手をさしのべて子どもを守ってくれるよう、すべての関係者にお願いします」と日本語と英語で書かれています。このパスポートを発行したのは24人の絵本作家たちで、スタンプの代わりに想像の国を一人当たり1ページ、描いておられます。例えば降矢ななさんは「ちゃんぽんの国」、田島征三さんは「愛しても愛しても愛し足りないクニ」、スズキコージさんは「花孔雀村」です。しかも、24カ国が全部次の国へと手(或いは足、尾、羽根、etc.)で一つに繋がっているためにジャバラ製本なのです。

なぜこんなパスポートを発行したのか、発起人の一人ささめやゆきさんは次のようにお書きです、「いま地球上で、戦争にまきこまれて、くるしんでいる子どもたちがいます。わたしたちえほん作家は、その子どもたちとともに生きてきました。なにがあっても、かれらとともに希望をもちたいと、この『ちきゅうパスポート』をつくりました。なにもできなくても、なにもしないわけにはいかないきもちです。こわされたビルは建てなおせなくても、石いっこだけでも運ぶおもいです」と。本書の収益の一部がウクライナの子どもたちの支援のために寄付されることを考えると、この「石いっこ」はとても大きく、温かい石であることがよく分かります。

ご存知のように、ロシアは国境を超えて隣国ウクライナに侵攻し、戦争を続けています。「元は自分たちの土地だった」という理由によって。でも、そもそも土地、国土って何のために有るのでしょう。そこに住んでいる人たちが共に生きていくためではないでしょうか。そうであれば、殺し合うための国境なんて本当は要らないのではないでしょうか。

イエスさまはおっしゃいました、「わたしのは、この世には属していない。もし、わたしのがこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしのはこの世には属していない」(ヨハ18.36)と。イエスさまがおっしゃる「わたしの国」、それは教会です。どの国の、いつの時代の人でも、教会ではイエスさまの国に入ることができます。ただし、建物に入るだけなら虫にだってできます。皆さんはぜひ、教会というイエスさまの国の「国民」になってください。その時、皆さんはパスポートをもらえます。それは紙でできたパスポートではありません。イエスさまを王さまと信じる心が与えられたひとに洗礼という水が注がれ、そのひと自身がパスポートになるのです。水が体をきれいにするように、洗礼は、戦争や死の原因である罪からそのひとがきれいにされ、パスポートになったしるしです。そして、このパスポートは、たとえそのひとが死んでしまっても、神さまが引き取ってくださり、そのひとがイエスさまの国の国民であることを、終わりの日の復活によって明らかにしてくださいます。それがイエスさまの国の国民に約束されていることなのです。だから、さあ、あなたもパスポートになりませんか?

2023/04/15

寺田牧師からのメッセージ

もしもイエスさまの復活がなかったら、世界はどうなっていたでしょう。

きっと、イエスさまを神の子、救い主と信じる人は一人もいなかったことでしょう。そして教会はなく、礼拝もありません。聖書も讃美歌もないし、キリスト教の学校や病院もありません。だから世界の誰一人、イエスさまを知らないでいた筈です!

もちろん、世界がそうなることを神さまはお望みにならず、ちゃんとイエスさまを復活させました。ただし聖書には、イエスさまが復活された様子については何も書いていないのです。つまり、イエスさまの復活は誰にも見られることがなく、ひっそりと起こったのです。

実はここに神さまからの問い掛けがあります。もしも多くの人々が見守る中で、イエスさまが華々しく墓から出てくれば宣伝効果抜群で、そこにいた誰もが復活を認めることでしょう。でも、神さまはそんな手段をお選びになりませんでした。それは「あなたは復活を信じますか? 見ないで信じますか? 私は決して無理やり強制することはしませんよ」と、いつの時代でもお尋ねになるためです。神さまのその問い掛けに私たちは「信じます」と答える教会です。昔も今もこれからも。どんなことがあろうとも。

2023/02/05

失敗という宝物

医療業界や航空業界は、一つのミスが、文字通り、命取りになりかねない業界です。だから、組織として、失敗をゼロに近づける真摯な努力が求められます。では、ミスを減らすには、どうすればよいのでしょうか。すぐ思いつくのは、「信賞必罰」をもって臨むこと、すなわち、ミスを厳しく非難し、懲罰を与えて、規律を正すことです。この対処法は、一見、良さそうに思えます。しかし、それは、本当に効果的なのでしょうか。

マシュー・サイドは、『失敗の科学』という本の中で、大学病院の複数の看護チームを比較した興味深い調査結果を紹介しています。確かに、懲罰志向が強いチームには、看護師から報告されたミスの数が、少ない傾向が見られました。しかし、これは、報告に上がってこないだけで、ミスの実数が少ないことを意味しているわけではありません。実際、詳しい実態調査が明らかにしたのは、懲罰志向のチームの方が、ミスの実数は多かったということでした。それとは反対に、非難傾向が低いチームの方が、実際に犯したミスの数は少なかったのです。

組織論という学問分野で、近年、組織の成長のためには、「心理的安定性」が大事だということが言われています。失敗が起きると、私たちはすぐ犯人捜しをし、その人を罰しようとします。しかし、罰されれば、人は失敗を隠します。逆に、失敗が許容され、包み隠さずに話すことのできる心理的安定性が組織にあれば、失敗は貴重な学習資源となり、組織は失敗から学んで、成長していくことができるというのです。失敗を減らしたければ、失敗を許さなければならない。面白い逆説です。

福音書を読んでいて、不思議な印象を受けることの一つに、弟子たちの失敗が赤裸々に描かれているということがあります。たとえば、ペトロが、イエスの仲間だろうと疑われて、「そんな人は知らない」と三度も否認したことは、四つの福音書のすべてに記されています。第一の使徒であり、後に初代のローマ教皇になるペトロですから、その生涯を輝かしいものに脚色するとか、少なくとも恥ずべき失敗については記さないという選択がありえたはずなのに、福音書はそうしていません。これほど赤裸々に描かれているのは、ペトロ自身が自分の過ちを、繰り返し語ったからだと思うのです。そして、初代教会には、そうすることのできる心理的安定性が確かに存在していたのではないでしょうか。イエス様の弟子たちが、自分はこんな失敗をした、こんな風にイエス様に叱られた、とまるで自慢話でもするかのようにわれ先に語り合っている様子を想像すると、私は、なんだかちょっと楽しい気持ちになってくるのです。

では、初代教会は、なぜこのような組織文化を持つことができたのでしょうか。思い出されるのは、「ルカによる福音書」第2232節のみ言葉です。イエス様は、ペトロの離反を知りながら、それを非難するのではなく、かえってこう祈られたのでした。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。私は、イエス様のこのとりなしの祈りに、その秘密があるのではないかと思うのです。

2022/12/03

やまあらしぼうやのクリスマス

標記のタイトルは絵本の題名です(グランまま社、1996年)。1983年に初めて邦訳された版では『クリスマスのほし』と訳出されていました(聖文舎)。もちろん筋書きは同じですが、今回はその古い訳文に沿ってご紹介します。

ある年のクリスマス前。やまあらしのぼうやがおかあさんに言いました、「ぼくも クリスマスのげきに でたいよ」と。おかあさんは「(教会で)なかまに いれてもらいなさい」と促します。しかし、ぼうやは鏡に自分の姿を映してこぼしました、「ぼくのすがたは おかしいな。きつねさんみたいに ふさふさした けもないし うさぎさんみたいな ながいみみもないんだもの」と。するとおかあさんは「あなたは とっても かわいいよ。せなかの とげも まっすぐだし めも くるくるしているし。あなたは おかあさんの こころをてらす ひかりだよ」と言いました。ぼうやは嬉しくなって教会学校へ出かけます。そこでは他の動物の子どもたちがクリスマスの劇の相談をしていました。ぼうやはワクワクしながら「ぼくも げきに でたいんだけど」と言いますが、きつねもうさぎも他の子どもたちも、ぼうやの特徴を示しながら、君は何の役にもなれない、と拒否します。ついには「とげのゴムまり やーい」と囃し立てました。ぼうやはたまらず泣きながら家に帰り、おかあさんに「とげのゴムまり」と言われたことを伝えます。するとおかあさんは「あなたは りっぱに まくひきが できるでしょう。おそうじも ほかのだれよりも じょうずなのよ」と教えてくれました。

クリスマスの4日前、他の動物の子どもたちには役が決まりますが、ぼうやは部屋の隅で舞台作りに精を出します。3日前、皆は衣装をもらいますが、ぼうやは端切れや糸屑を掃除します。2日前、皆は練習に没頭しますが、ぼうやは大道具の配置に念を入れました。そしていよいよクリスマスの夜が来ました。本番前、「ツリーを たてろ! とげのゴムまり」と子どもたちが叫ぶと、ぼうやは急いでツリーを立てます。「ぶたいをきれいにして! とげのゴムまり」と言われると、ぼうやはすぐに掃除をしました。そしてぼうやが部屋の明かりを消し、舞台のライトをつけ、幕のロープを引き、劇が始まりました。たくさんの動物たちの家族が見守る中、子どもたちは演じます。ところが観客たちがざわつき始めました、「おほしさまが ないよ」「ほしがなければ はかせたちが あかちゃんイエスさまのところに やってこられないよ」と。舞台上で異変に気付いた子どもたちは大騒ぎです。「どうしよう どうしよう」。するとぼうやが大急ぎでツリーに駆け上がり、そのてっぺんでクルリと丸くなってみせたのです。観客席の大人も子どもも口々に言いました、「やあ なんてきれいな ほしでしょう」「ほしだ ほしだ」と。そうです、ぼうやのトゲトゲは星が放つ光そのものとなっていたのです。やまあらしのおかあさんはそんなぼうやを優しく見つめ、「わたしの こころの ひかり」と呼び、にっこり微笑むのでした。

保護者の皆さん、我が子の特徴がたとえトゲトゲで、それで人から嫌われ、馬鹿にされ、苛めの口実になったとしてもその特徴を問題視する必要はありません。親が子どもの個性を受け入れ、それを活かせる場があると信じて「あなたは とっても かわいいよ。…(わたしの)こころをてらす ひかりだよ」と言い聞かせれば大丈夫です。その時、子どもは安心して自分自身を受け入れ、その個性を見事に発揮します。トゲトゲは必ず活かされ、最大限に用いられることでしょう。その光景を幻に描きましょう。どの子も闇夜で輝き、人々を照らすクリスマスのほしに選ばれているのですから。神さま、バンザイ!