2020/08/01

そして隣人になる

是枝裕和監督の『そして父になる』という映画をご覧になったでしょうか。病院で赤ちゃんを取り違えられてしまった二組の家族のお話です。それまで実の子だと思って育てていた息子が、6年経ってから、実は血の繋がりがない他人の子どもだったことがわかったのです。そのことをどう受け止めたらいいのか、二組の家族がそれぞれ苦悩する様子が描かれるのですが、その中でも、スポットは福山雅治さん演じる良多という一方の家族の父親に当てられています。

良多は、これまで失敗したことがないエリート会社員です。だからでしょう、自分には簡単だったピアノがいっこうに上達しない息子の気持ちもわからない父親でした。映画は、そんな良多が、取り違えの発覚をきっかけに、自分がいままで、自分の理想とする鋳型に息子をはめ込もうとしていただけであって、息子と本当にはかかわろうとしてこなかったことに少しずつ気づかされていく過程を、いくつものエピソードを積み重ねながら繊細に描き出していきます。良多は、血の繋がりがあれば「父である」と考え、「父になろう」とはしてこなかったのです。この映画は、人は生物学的に「父である」だけでは「父でない」こと、本当に「父である」ためには「父になる」必要があることを教えてくれているのだと思います。

「善いサマリア人」のたとえ話は、「わたしの隣人とはだれですか」という律法学者の問いをきっかけにイエス様が話されたものでした。しかしたとえ話を挟んで、イエス様は律法学者の問いを転換され、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問い返されています。律法学者は、同じ民族であるユダヤ人こそが「隣人である」と考えていたのですが、イエス様は、本当の隣人は、その人を助けて「隣人になろう」としたサマリア人であることを教えられたのです。「善いサマリア人」は、平明でありながら豊かな含意を秘めたたとえ話ですが、本当に「隣人である」ためには「隣人になる」必要があることがその含意の一つであることは間違いないでしょう。

塔和子さんに「胸の泉に」という詩があります。「ああ/何億の人がいようとも/かかわらなければ路傍の人/私の胸の泉に/枯れ葉いちまいも/落としてくれない」という末尾の一節がよく知られていますが、その前にはこんな一節が置かれてます。「人はかかわることからさまざまな思いを知る/子は親とかかわり/親は子とかかわることによって・・・かかわったが故に起こる/幸や不幸を/積み重ねて大きくなり/くり返すことで磨かれ/そして人は/人の間で思いを削り思いをふくらませ/生をつづる」。映画は、子どもの取り換え事件にははっきりとした解決が与えられないままエンドロールを迎えます。しかし二人の息子と「かかわること」で「生をつづ」ろうとする良多の決意はもはやゆるぎありません。