2023/08/01

天才か使徒か

「民藝運動」をご存じでしょうか。1926年に柳宗悦たちが「日本民藝美術館設立趣意書」を発表したことが、この運動の始まりとされています。一般的には「手仕事によって生み出された日常づかいの雑器に美を見出そうとする運動」と説明されますが、この運動が推し進めようとした「美」の見方の転換は、キリスト者にとっても学ぶところの多いものです。

私たちは、特別な才能を持った天才が、その個性を存分に発揮して作り出した作品に、美が宿ると考えているのではないでしょうか。そうした作品は、貴重で高価ですから、とうてい日常づかいにはなりません。また作品は個性の表現ですから、私たちは、誰の作であるかを示す「銘」を過剰にありがたがります。ともすれば「器そのものを見ているのではな」く、「名を贖」うような倒錯さえ生じるほどです。

これに対して、「民藝美の一つの著しい特質はそこに個性癖が見えない点」にあります。無名の職人が、人々の用に仕える器を作り出そうとして、「自然な材料」を用い、「自然な工程」に従い、「素直な心」で作業にいそしむとき、そこに無心の美が宿ると柳は言います。人々の用に仕えるために「多く作られ安くできる日常品」の中に、かえって自我へのこだわりから解き放たれた「無我的な超個人的な美が示される」と言うのです。柳は、人間が個性を超克して、無心になり、自然を映し出すところに美を見出そうとしているのです。

ところで柳は、「信の法則と美の法則とに変わりはない」とも書いています。「よき信仰」も「主我の世界にはなく、没我の世界にのみ現れる」からです。とすれば柳の議論が、哲学者のキルケゴールが「天才と使徒との相違について」という小論の中で述べていることと符合することに不思議はないでしょう。「天才は自分自身によって、すなわち、自分自身の内にあるものによって、その在るところのものである。使徒は神からの権能によってその在るところのものである」。これが、天才と使徒との決定的な違いです。パウロの才気や明敏や比喩の豊かさをほめ、彼を天才と見なす人がいます。しかしそれは「パウロには迷惑なこと」に過ぎないとキルケゴールは言います。そしてそんな人に、パウロならこう答えるだろうと言うのです。「君の心にしかととどめてもらいたいのは、わたしの語ることは啓示によってわたしに委託されたものだということ、だから語っておられるのは神ご自身あるいは主イエス・キリストであるということである」。

ここで思い出されるのは、カルヴァンが、彼の聖書理解に基づいて形成された一派に「カルヴァン派」という個人名を冠することを許さず、「改革派」という信仰の姿勢を示す名称を用いたことです。カルヴァンは、墓碑を作ることも許しませんでした。自分が神格化されてしまうことを恐れたからです。もちろんツヴァイクが『権力とたたかう良心』で辛辣に描いたように、カルヴァンの生涯にはいくつもの過ちがありました。だからカルヴァンも聖人などではなく、一人の罪人に過ぎません。しかしカルヴァンが、「実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(マコ13.11)というみ言葉に忠実に神の器として生きようとしたことは間違いないでしょう。カルヴァンは、天才として自らの名を残すことの「栄光」より、使徒として生きることの「光栄」をよく知っていたのです。