2021/06/01

パンのかけらとちいさなあくま

ちょうど今の季節に読みたくなる絵本があります。できることなら麦秋を愛でながら読み聞かせたい『リトアニア民話パンのかけらとちいさなあくま』(内田莉莎子再話、堀内誠一絵/福音館書店)です。
小さな悪魔がおりました。ある日、森の奥で働く貧しい木こりの弁当(パンのかけら)を盗み、持ち帰ってしまいます。そして悪魔の住みかでその悪事を得意顔で報告したのですが、これが大きな悪魔たちをカンカンに怒らせてしまいました。「なんてヤツだ!貧乏な木こりの大事な弁当じゃないか。さ、今すぐ謝りに行け。お詫びのしるしに木こりのために働いてこい。何か役に立つことをやって来い。それまでは帰って来るな!」。小さな悪魔はしょんぼりして木こりの所へ戻ります。「木こりさん、ごめんなさい。ぼくはあなたの大事なパンを盗みました。ほんとにごめんなさい。お詫びに何かさせてください」。優しい木こりは「パンを返してくれればそれで結構」と言い、笑って帰そうとしましたが、小さな悪魔は「それでは困るんです。どんなことでもやりますから、何か言い付けてください」と言って泣き出してしまいました。驚いた木こりは考え込み、地主が所有する沼地に悪魔を連れて行きました。そして「この沼を麦畑に変えることができるかい?」と尋ねると、小さな悪魔は「できます、できます」と答えます。木こりが地主に頼んでみると、地主は呆れて笑いながら「好きなようにやってみろ」と言いました。そこで小さな悪魔は本領発揮。まさに悪魔的な力で泥沼をたちまち開墾してしまいます。すると驚く木こりも手伝って、二人は見事、泥沼を麦畑に変えたのでした。
ところが「さあ、今度は刈入れだ」という時、地主が作男を率いて来て、実った麦穂を全部持って行ってしまいました。「沼を麦畑にして良いと言ったが、お前にやるとは言わなかった」というのが理由です。しかし、小さな悪魔は才気煥発、「せめてたったひと束でいいから麦を分けてやってくれませんか」と頼みます。地主は痩せた小さな悪魔の哀しそうな顔を見て、「一束くらいはくれてやる」と笑いながら言いました。すると小さな悪魔は木こりのところへ飛んで帰り、とてつもなく長い縄を二人で一所懸命縒るのです。そしてその長い縄で、納屋にあるだけの麦を一束にまとめました(さすが悪魔!)。それを見た地主はビックリ仰天。が、すぐさま身勝手にも激怒して牡牛に襲い掛からせようとします。しかし小さな悪魔は牡牛たちをひょいひょいとつかまえ、牛の背中に納屋いっぱいの麦を乗せ、全部持ち帰ってしまいました(やっぱり悪魔!)。それを見た地主はひっくり返って死んでしまったのでした。
小さな悪魔は大量の麦に牡牛数頭のおまけをつけて、木こりに渡して言いました、「これでボクがあなたの大事なパンを盗んだの、赦してもらえますか」と。すると木こりは感激して「当り前だ」と言って泣き、夫婦揃って喜んで「ありがとう、ありがとう」とまで言ってくれました。小さな悪魔は嬉しそうに笑いながら言いました、「ああ、良かった。これでうちへ帰れます。それじゃ元気でね、木こりさん」と。
物語はこれで終わりですが、この絵本の画家堀内誠一さんは最後のページにステキな場面を描いておられます。それは影絵風に描かれていて、住みかに戻った小さな悪魔が大きな悪魔たちにほめられて、頭をかいている後ろ姿です。大きな悪魔たちが笑っているのも良く分かります。こういう“うち”っていいですよね。
もちろん盗みは良くないことです。でも、過ちは盗みだけではなく、他にもたくさんあるでしょう。そういう過ちを、ただの一度も犯さないでいる子どもがいるでしょうか。寧ろ過ちや失敗を何度も重ねて子どもは成長するのではないでしょうか。また、その子どもを見守る大人も、そんな子どものお陰で成長できるように思います。大事なことは、自分の“うち”に規律と赦しとがあることです。そこで育まれた子どもたちは、きっと安心して“うち”に帰って来ることでしょう。教会もそんな“うち”の一つです。