2020/12/04

ラチとらいおん

ラチは「せかいじゅうでいちばんよわむし」の男の子でした。散歩中の犬を見るだけで逃げ出すし、暗い部屋には恐くて入ることができません。おまけに友だちさえ恐いのです。だから、みんなはラチを見下し、遊んでくれず、仲間外れにしていました。そのためラチはいつも泣いてばかりいて、一日中絵本を見ているしかありませんでした。

そんなラチにもお気に入りの絵がありました。それは雄ライオンを描いた絵で、ラチはこの絵を見る度に「ぼくに、こんな らいおんがいたら、なんにも こわくないんだけどなあ」と思っていました。するとある朝、ラチが目を覚ますと小さな赤いライオンがベッドのそばにいるではありませんか。ラチは自分の理想とは全く違うライオンを見て大笑いしてしまいます。ところが意外にもこのライオンはとても強く、ラチを押し倒せるほどでした。そして言うのです、「きみもつよくなりたいなら、ぼくが つよくしてやるよ」と。それからトレーニングが始まりましたが、それは毎朝の体操だけ。何も特別なことはしませんでした。そんなある日、小さなライオンをポケットに入れたラチが散歩に出かけると、犬を恐がっている女の子が泣いています。ラチは逃げ出そうとしましたが、ライオンが一緒にいることを思い出し、「こわくなんかないぞ。ぼくには、らいおんが ついているんだから」と自分に言い聞かせました。そして女の子の手を引き、犬の側を通り抜けたのです!ライオンが一緒なので、ラチは犬を怖いと思わなかったのでした。

ラチは家に帰り、絵を描こうと思い立ちます。が、肝心のクレヨンがあるのは真っ暗な部屋の中。電灯を点けようにも手が届きません。暗い部屋に入るのをためらうラチにライオンが言いました、「ぼくが ついていってあげよう」と。するとラチは暗い部屋に入り、クレヨンを取って来ることができました!そしてその日は寝るまで絵を描くことができたのです。

こうしてラチはどんどん強くなり、ある日ライオンと相撲を取るととうとう勝ってしまいました!そこで勢い、ラチはライオンをポケットに入れ、友達のところに出掛けて行きました。一緒に遊ぶためです。ところがみんなはいじめっ子にボールを奪われ、しょんぼりしていました。意を決してラチはボールを奪い返しに行きますが、みんなは期待薄でした。それでもラチは「こわくなんかないぞ。ぼくには、らいおんが ついているんだから!」と確信していたのです。そして、相手が恐がるほどに強気で追い掛け廻し、見事ボールを取り返すのでした。当然みんなは大喜び。そこでラチはポケットのライオンにお礼を言おうとするのですが、なんと入っていたのはリンゴでした。そうです、ライオンがいなくてもラチは強かったのでした!

ラチは勇んで家に帰ります。すると置き手紙がありました。「ラチくんへ/きみは、らいおんと おなじくらい つよくなったね。もう、ぼくがいなくても だいじょうぶだよ。ぼくは これから よわむしのこどものところへ いって、つよいこどもにしてやらなくちゃならないんだ。ぼくを いつまでも わすれないでくれたまえ。ぼくも、きみのことは わすれないよ。じゃ、さよなら/らいおんより」。

ラチと共にいてくれたライオンは、ラチが独り立ちできるようにしてくれたのでした。ラチの心の中にいる弱虫は誰の心にもある「臆病さ」でしょうけれど、「わたしには強いライオンが一緒にいる」と知ったなら、臆病では無くなるのです。この意味において、クリスマスは神の子キリストが私たちのライオンになってくださった日であると言えるでしょう。臆病な人間たちと共にいるためにキリストが人間になり、その友になってくださったからです。聖書はこの恵みを「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と呼んでいます。その姿が見えなくても、神は人の友になり、わたしと共にいてくださるのです。だから、おめでとう。クリスマスは臆病なあなたのためにある日です。

2020/10/01

はしれ!カボチャ

若者たちの大騒ぎで有名なハロウィンもコロナ禍に在る今年ばかりは趣が違うようです。それでもこの原稿を書いている9月には、既に街の至るところで「ジャック・オー・ランタン」と呼ばれる顔型に切り抜いたカボチャをモチーフにした装飾や商品を見かけるようになりました。そのほとんどが緑色の日本カボチャ(トロピカル・スクワッシュ)とは違うオレンジ色の西洋カボチャ(ウインター・スクワッシュ)です。今回は、この西洋カボチャを題材にした『はしれ!カボチャ』という絵本(ポルトガルの昔話)をお勧めしたいと思います。

田舎に住んでいたおばあさんのもとに、ある日、孫娘から結婚式の招待状が届きます。おばあさんは大喜び。早速チェック柄の帽子に花を挿し、同じ柄のコートを羽織り、網タイツに紅いハイヒールという秋らしい(?)ファッションで出掛けました。ところがその道中、オオカミが現れます。そして「ばあさん、おまえをくってやる!」と吠えるのです。恐怖に駆られたおばあさんは、その場凌ぎでこう言います、「どうか たべないでおくれ! あたしゃ すごく やせっぽち。まごのけっこんしきに いってくるから かえりにゃ もっと ふとっているよ」と。するとオオカミは少し考え、「(なるほど)じゃあ、いってきな。ここで かえりを まってるぜ」、そう言って見送るのでした。しかし、その後もクマとライオンとに同じように吠えられ、その都度おばあさんはその場凌ぎで難を逃れます。そしてどうにか孫娘の家に辿り着きますが、恐ろしさが消えることはありません。ぶるぶる震えながら孫娘に、途中で起こったことを話しました。でも、孫娘は笑いながら「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言うだけです。そして明くる日はめでたい結婚式。実に賑やかなお祝いが繰り広げられました。おばあさんもご機嫌で踊りましたが、お開きの時間になると突然恐怖がよみがえります。オオカミ、クマ、ライオンの待ち構えているのを思い出したからでした。すると孫娘が微笑みながら、畑で一番大きな西洋カボチャをとってきて中身をくり抜き、小さな窓を開け、おばあさんにすっぽりかぶせてしまったのです。そして驚いたことに、おばあさんが中に入っているそのカボチャを、もと来た道へと転がしてしまいました。カボチャが転がって行くとライオンが待ち構えていました。そして偉そうに尋ねます、「やい カボチャ、ちっこい ばあさん みなかったか?」と。するとカボチャの中から声がします、「みーなかった みなかった じいさんも ばあさんも みなかった。ゴロロン ゴロロン カボチャよ はしれ! はしれよ カボチャ ゴロロン ローン!」と。ライオンは呆気にとられ、身動きが取れなくなります。その間に(おばあさんが隠れた)大きな西洋カボチャは、道をゴロゴロ転がってライオンの前から去って行きました。そしてそれと同じように、クマはカボチャにびっくりし、オオカミは目を丸くしてカボチャを見送るより他なかったのです。こうしてやっとのことで、おばあさんは無事に家に帰り着きました。そして亡き夫の遺影が置かれた寝室で、結婚式の喜びをかみしめながら、床に就こうとするのでした。

この最後の場面では、庭に大きな西洋カボチャが置かれているのが窓の外に見えています。その眺めはハロウィンの風習とそっくりですが、この絵本には、孫娘が結婚する嬉しさ以上に、その知恵において明らかに成長している孫の姿を見たおばあさんの大きな喜びが溢れているように思えました。

2020/08/01

そして隣人になる

是枝裕和監督の『そして父になる』という映画をご覧になったでしょうか。病院で赤ちゃんを取り違えられてしまった二組の家族のお話です。それまで実の子だと思って育てていた息子が、6年経ってから、実は血の繋がりがない他人の子どもだったことがわかったのです。そのことをどう受け止めたらいいのか、二組の家族がそれぞれ苦悩する様子が描かれるのですが、その中でも、スポットは福山雅治さん演じる良多という一方の家族の父親に当てられています。

良多は、これまで失敗したことがないエリート会社員です。だからでしょう、自分には簡単だったピアノがいっこうに上達しない息子の気持ちもわからない父親でした。映画は、そんな良多が、取り違えの発覚をきっかけに、自分がいままで、自分の理想とする鋳型に息子をはめ込もうとしていただけであって、息子と本当にはかかわろうとしてこなかったことに少しずつ気づかされていく過程を、いくつものエピソードを積み重ねながら繊細に描き出していきます。良多は、血の繋がりがあれば「父である」と考え、「父になろう」とはしてこなかったのです。この映画は、人は生物学的に「父である」だけでは「父でない」こと、本当に「父である」ためには「父になる」必要があることを教えてくれているのだと思います。

「善いサマリア人」のたとえ話は、「わたしの隣人とはだれですか」という律法学者の問いをきっかけにイエス様が話されたものでした。しかしたとえ話を挟んで、イエス様は律法学者の問いを転換され、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問い返されています。律法学者は、同じ民族であるユダヤ人こそが「隣人である」と考えていたのですが、イエス様は、本当の隣人は、その人を助けて「隣人になろう」としたサマリア人であることを教えられたのです。「善いサマリア人」は、平明でありながら豊かな含意を秘めたたとえ話ですが、本当に「隣人である」ためには「隣人になる」必要があることがその含意の一つであることは間違いないでしょう。

塔和子さんに「胸の泉に」という詩があります。「ああ/何億の人がいようとも/かかわらなければ路傍の人/私の胸の泉に/枯れ葉いちまいも/落としてくれない」という末尾の一節がよく知られていますが、その前にはこんな一節が置かれてます。「人はかかわることからさまざまな思いを知る/子は親とかかわり/親は子とかかわることによって・・・かかわったが故に起こる/幸や不幸を/積み重ねて大きくなり/くり返すことで磨かれ/そして人は/人の間で思いを削り思いをふくらませ/生をつづる」。映画は、子どもの取り換え事件にははっきりとした解決が与えられないままエンドロールを迎えます。しかし二人の息子と「かかわること」で「生をつづ」ろうとする良多の決意はもはやゆるぎありません。

2020/06/01

フレデリック

レオ=レオニ(Leo Lionni1910.5.51999.10.11)の作品に『フレデリック』という絵本があります(好学社)。筆者が子どもの頃からありましたから(邦訳1969年発行)、今は何刷にも上っていることでしょう。その副題に「ちょっと かわった のねずみの はなし」と掲げられている通り、主人公は野ネズミのフレデリックです。

フレデリックは仲間のおしゃべりな4匹の野ネズミと共に、とある農家の庭先の石垣の中に住んでいました。けれどもある日、農家の家族が引っ越してしまい、納屋は傾き、サイロは空っぽになります。おまけに冬も近いので、野ネズミたちは昼夜を問わず、トウモロコシや木の実、小麦、藁を集め始めました。越冬の準備です。ところが、フレデリックはその横でじっとしているままでした。仲間の野ネズミたちが不思議に思い、フレデリックに尋ねます、「どうして きみは はたらかないの?」と。するとフレデリックは答えました、「こう みえたって,はたらいてるよ。さむくて くらい ふゆの ひの ために,ぼくは おひさまの ひかりを あつめてるんだ」と。


そしてまた、フレデリックが座り込んで牧場をじっと見つめていると、みんながまた聞きました、「こんどは なに してるんだい,フレデリック?」と。フレデリックはあっさり答えます、「いろを あつめてるのさ。ふゆは はいいろだからね」と。

またある日、フレデリックは半分眠っているようでした。するとみんなは少し腹を立てて尋ねました、「ゆめでも みてるのかい,フレデリック」と。「ちがうよ,ぼくは ことばを あつめてるんだ。ふゆは ながいから,はなしの たねも つきて しまうもの」。

そして冬が来て雪が降り、5匹の野ネズミたちの越冬が始まります。初めのうちは食べ物もたくさんあり、みんな楽しくおしゃべりもしていました。しかし、少しずつ木の実や草の実は減って行き、藁もトウモロコシも底を突きます。野ネズミたちはぬくぬくと過ごしていた頃を懐かしがりますが、もうおしゃべりをする気にもなれません。しかしその時、みんなは思い出したのです、自分たちとは別の働き方をしていたフレデリックが言っていたことを。そこで尋ねました、「きみが あつめた ものは,いったい どう なったんだい,フレデリック」と。するとフレデリックはみんなに目をつむらせ、太陽の話を聴かせてあげました。光を思い起こさせるためです。次にアサガオや麦、ケシ、野いちごの葉っぱのことを話し出しました。みんなの心の中にいろいろな色を思い描かせるためです。そして最後には(俳優になりきって!)3月の雪解け、6月に咲き誇るクローバー、夕暮れや月の美しさを思い出させ、あたかもそれらが4匹の野ネズミたちによって営まれたかのように語り聞かせてあげました。そのようにして、四季の素晴らしさを教えつつ、冬にも意味があることや、自分たちが一人も欠けることなく、共にいられる幸いを優しく伝えてあげたのです。

フレデリックが話し終わるとみんなは拍手喝采。「おどろいたなあ,フレデリック。きみって しじんじゃ ないか!」。フレデリックはお辞儀をしながら「そう いう わけさ」と挨拶し、この絵本は終わります。その時のフレデリックはとても恥ずかしそうでいて、誇らし気でもありました。

確かに、フレデリックは光、色彩、言葉を吸収し、それを見事に語り聞かせて、冬ごもりをする仲間を励ましました。けれどもそれは、みんなとは違う働き方で冬ごもりの準備をしていた詩人だからできたことでした。

子どもたちは今、コロナ籠り(?)を強いられています。しかし、この小さな詩人の姿から勇気を与えられるように思います。もしかすると、人生いかに生きるべきか、という問いに答えを出せる子があるかも知れません。いや、そういう期待は棄てて、ぜひとも膝の上に子どもを座らせ、読み聞かせてやってください。誤解を恐れぬ詩人フレデリックの崇高な信念と尊い働きと強かな友情とを!
 

2020/02/01

恐れることを 恐れるな

親鸞の教えとキリスト教には似たところがある、とよく言われます。親鸞は漢訳の聖書を読んでいたのではないか、という説もあるくらいです。その親鸞から直接聞いた言葉を、門弟の唯円が書き留めたとされる『歎異抄』の第九条に、次のような味わい深い二人の対話が出てきます。まず唯円が口火を切り、親鸞にこう問いかけます。「念仏をしていても、躍り上がるような喜びの心は湧いてこないし、早く浄土に往生したいという心も起こってきません。どう考えたらよいのでしょう」。この思い切った、しかし正直な唯円の告白に、親鸞は驚くべき、しかし等しく正直な応答をしています。「この親鸞もなぜだろうと思っていたのですが、唯円、あなたも同じ心持ちだったのですね」。阿弥陀様の救いを信じている。だから極楽往生は間違いない。なのにいっこうに死など恐ろしくないという境地には達しない。でもそんな煩悩まみれの私たちのためにこそ、阿弥陀様は来てくださるのだ。親鸞は、そう言いたかったのだと思うのです。

これとよく似たエピソードを、カトリック作家の遠藤周作さんが、『変わるものと変わらぬもの』というエッセイ集の中で書いています。先輩作家の椎名麟三が、洗礼を受けた後に、「これで、ジタバタして死ねますよ」と語ったというのです。この椎名の言葉を、遠藤さんは、こう解き明かしています。「「すべてを神に委ねたてまつる」とは自分の立派な部分だけでなく、弱さ、醜さすべてを神という大きなものにせることである。椎名さんが、「これでジタバタして死ねますよ」と言ったのもそういう意味だったにちがいない」。


「恐れるな」が、聖書の中心的なメッセージの一つであることは間違いありません。聖書の中には、実に365回、この言葉が出てくるそうです。とすると復活を信じているのだから、死を前にしても、恐れることなく泰然自若としてそれを受け入れていく、これこそがキリスト者のあるべき姿だ、そのようにも思えてきます。でも本当にそうなのでしょうか。神以外のすべてを恐れる必要がないとすれば、その「すべて」には、「恐れること」それ自体も含まれると考えることができるでしょう。つまり「恐れるな」というメッセージの豊かな広がりは、「恐れることを恐れるな」というところにまで及んでいるように思うのです。

自分に死が迫ったとしたら、泰然自若としてそれを受け入れていく自信は、とうてい私にはありません。ジタバタしてしまうような気がします。みっともない振る舞いをしてしまいそうな気がします。でもイエス様は、「そんな情けないお前のためにこそ、私は来たのだよ」と言ってくださるのではないかと思うのです。そしてイエス様がそう言ってくださるなら、少しは勇気を出して死と向き合うことができそうな気がするのです。