2022/02/02

放蕩息子の兄

山本周五郎に「鼓くらべ」という短編があります。ストーリーを紹介してみましょう。加賀の国では、新年に「鼓の上手を集め、御前でくらべ打ちを催して、ぬきんでた者には賞が与えられる」ことになっていました。お留伊は、ライバルのお宇多に勝つために、離れで小鼓の稽古に励んでいました。そのとき、庭に人の気配を感じます。誰何すると、一人の老人が姿を現しました。そして、「お鼓の音のみごとさに、つい庭先に誘われた」と言うのです。老人は、翌日も現れました。親しさを感じ始めたお留伊は、色々な話しをするようになります。

やがて老人は、死の床に着きます。そして、お留伊を呼んで、こんな話をしました。十余年前、市之亟と六郎兵衛という二人の名人がいた。御前での鼓くらべは、二人の大勝負になったが、市之亟が勝った。しかし、市之亟はなぜか二度と「鼓は持たぬと誓って、何処ともなく去った」と言うのです。そして、こう諭しました。「人と優劣を争うことなどはおやめなさいまし、音楽はもっと美しいものでございます」。

しかし、いくら諭されても、賞を受ける自分を想像すると、誇らしさに身が震えるお留伊でした。左にお留伊、右にお宇多が座を占めて、鼓くらべが始まります。お留伊の鼓は、見事に鳴り響きました。ライバルを見やったお留伊の眼に映ったのは、「どうかして勝とうとする心をそのまま絵にしたような、烈しい執念の相」を示すお宇多の顔でした。そのときです。お留伊は、あの老人が市之亟その人だったことに気づくのです。お留伊の右手がはたと止まります。客席には動揺が広がりますが、お留伊には、「老人の顔が笑いかけて呉れるように思え、今まで感じたことのない、新しいよろこびが胸に溢れて来」るのでした。

お留伊は、お宇多の中に、賞に囚われて、音楽と共にあることそれ自体を喜べなくなっていた自分の姿を見たのでしょう。この物語は、そのような呪縛から解き放たれたとき、お留伊に起きた変化を巧みに伝えてくれています。

ところで、ヘンリ・ナウエンは、『放蕩息子の帰郷』という本の中で、イエス様が語ったこの有名な譬え話を、弟よりも兄に注目して、読み解いています。家に留まった兄こそ、弟以上に失われた者となっていると言うのです。兄は、外面的には、父に忠実な良い息子でしたが、「内面においては、父から離れ、さまよい出て」いました。兄は、帰って来た弟を歓待する父に、こう不満を漏らします。「わたしは何年もお父さんに仕えています。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」。兄は、長く父と共にいたはずなのに、そのこと自体を喜んでいません。父に仕えることが、報いを得るための義務のようになってしまっているのです。そして、ナウエンは、神と共にあることそれ自体を喜べなくなることは、この兄のようにまじめなクリスチャンにこそ起りがちなことだと言うのです。

では、どうすればよいのでしょうか。回復への道は、すでに父なる神が整えてくださっています。父は、何の見返りも求めず、兄弟と共にあることそれ自体を喜んでいたのでした。何よりも、この「父がわたしに差し出す無条件の愛、そして、赦す愛を受け取」ることです。受け入れられていることを受け入れ、「報いを得たいという関心から解放されて行動するごとに、わたしの人生は、神の霊による真の実を結ぶ」、そうナウエンは述べています。