2015/12/06

くまのコールテンくん

ボクの母は保育士で、その仕事柄、何冊ものよい絵本に精通していました。よい絵本とは、例えば3世代以上読み継がれる本のことですが、『くまのコールテンくん』もその一つです。

大きなデパートのおもちゃ売り場に、緑色のズボンをはいた熊のぬいぐるみのコールテンくんがいました。どのぬいぐるみも「早く誰かのうちに連れて行ってほしい(購入されたい!)」と思っていました。ある日、ひとりの女の子がコールテンくんの前で立ち止まり、お母さんに買って欲しいとせがみます。けれども、ズボンのつり紐のボタンが1つ取れていると言われてしまい、店を後にされてしまいます。その夜、コールテンくんはボタンを見つけるために、閉店したデパート中を探し回りました。やっと見つけた、と思ったら、ベッドについている留めボタンだったのですが、これを引きちぎってしまった弾みで警備員のおじさんに見つかってしまいます。結局ボタンは見つからず、元のおもちゃ売り場に戻されることになりました。

ところが次の朝、昨日の女の子がやって来て、自分の貯金を全額使い切ってコールテンくんを家に連れて帰って(買い取って!)くれたのです。そして、この女の子「リサ」はコールテンくんを自分の部屋に連れ入れ、ひざに乗せると、とれたボタンを付けてくれました。その時、リサはこう言いました、「あたし、あなたのことこのままでもすきだけど、でも、ひもがずりおちてくるのは、きもちわるいでしょ。」と。コールテンくんはそこで初めてリサと言葉を交わします、「ともだちって、きっときみのようなひとのことだね。」と。

子どもも何らかのコンプレックスを持っています。けれども、それでも変わることのない愛情を実感することができたとき、子どもは「ともだち」を見つけ自由になれるのです。大人たち、親たちも、この意味においては子どもたちの「ともだち」でありたいものです。そうすれば、子として、親として、そして友として、お互いに仕合わせな人生を歩めるように思います。

2015/11/01

長新太さんの脳内

今年は絵本作家でいらした長新太(ちょう・しんた/19272005)さんの没後10年に当たります。これを記念して、横須賀美術館で「長新太の脳内地図展」が開かれ、早速観覧して来ました。

長さんは現在の東京都大田区羽田に生まれ、蒲田でお育ちになりました。蒲田が空襲の被害を受けたことを機に横浜に移られ、敗戦後の1948年、東京日日新聞のマンガコンクールに一等入選。そのため一旦は漫画家となられます。しかし、絵本作家堀内誠一氏の勧めを受けて、最初の絵本『がんばれ さるの さらんくん』を1958年に手掛けると、翌年には『おしゃべりなたまごやき』で文藝春秋漫画賞、1981年『キャベツくん』で絵本にっぽん大賞、2005年『ないた』で日本絵本大賞など、多数の作品を受賞されることになりました。

長さんの作品には我が家の娘たちもお世話になったのですけれど、その特長はズバリ「ナンセンス」であることです。そのため、性(しょう)が合わないひとには何が面白いのかさっぱり分からない作品ばかりでしょうが、ボクに言わせれば、それは読者の心をくすぐる斬新さ。しかも柔軟な発想の裏に優しさが満ちていると思います。

今般購入したのは『みみずのオッサン』。ある日、ペンキ工場が爆発し、ピンクやオレンジのペンキが流れ出し、町中がドロドロになります。見かねた「みみずのオッサン」が、このドロドロ、ベタベタをぜんぶ食べ尽くし、あっという間に養分を含んだ土に還してしまいました。するとそこには緑の大地が広がり、太古の昔の世界が回復したのです。なんと素晴らしい筋書きでしょう。あり得ません。そう、これこそまさにナンセンス。ですが、みみずのオッサンには、このあり得ないことをやってのける逞しさが有り、力があり、正義と勇気とが備わっていた、ということです。

長さんは、古いセンスを打ち破って生き長らえるためには、たとえ「ナンセンス」と言われようとも、新しいセンスを保ち続けることである、そのように教えたかったのかも知れません。

新しさを恐れない、変わることを恐れない。そういう心の柔らかさこそ、私たちが生き長らえる秘訣であると思えました。もしかすると私たちは、自分の脳内に残る頑さ、古臭さにまだ気づいていないのかも知れません。

2015/10/04

フューチャーのために

2015年と言えば『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2』。その理由が分かるひとは“通”と言えます。

前作の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(Back to the Future)は1985年アメリカのSF映画(直訳「未来に戻る」)。公開当時は全米で「フューチャー現象」と呼ばれるブームが生まれるほど大ヒットしました。そのPART2は、本編が第一作で完結していたにも拘らず制作された続編です。内容は、主人公のマーティ・マクフライ達が未来の自分の子どもを救うために2015年へタイムトラベルをするというもの。そこに描かれた2015年の未来都市の姿は衝撃的です。マーティの友人である科学者ドクの作ったタイムマシン「デロリアン」(時々横須賀にもレプリカが出没)で2015年に行ってみると、あるわあるわ、未来の便利グッズの数々が。

しかし30年経った今、その内の幾つかは既に実現しています。①自動でヒモが締まるスポーツシューズ(ナイキ製)、②眼鏡型コミュニケーションツール(グーグルグラス)、③タブレット型コンピューター(iPadなど)、④「手を使わない」ゲーム(Wiiなど)、⑤壁掛けタイプの薄型テレビ(それもワイドスクリーン、マルチチャンネル)、⑥3Dムービー、⑦ビデオ会議、そして⑧ホバーボード。特に⑧は、自作で275.9mの飛行に成功してギネス記録を更新した男性がいる他、トヨタの高級ブランド「レクサス」の研究チームが液体窒素を使って実現しました。その試験走行ではホバーボードが実際に浮いて動いている姿を、Youtubeでも閲覧できます(問題は販売額ですけれどw)。

十年一昔と言いますが、30年も経つと、当時は想像するだけであったことがかなり実現しているものなのですね。もちろんそこには、想像したことを目標に掲げて日夜取り組んだ研究者、努力家がいたのです。ですから、絵空事と笑われても目標を掲げて努力することが尊い、と言えるでしょう。ただし、それだけに「この発明、開発は、誰が何のためにどう使うべきなのか」を明確に示しておく必要があるように思います。そこに神への畏怖、隣人を思う愛情が無ければ、ドローンの軍用化や古くはダイナマイトの兵器化同様、隣人の命を奪う発明とさえなるからです。

すばらしい発明品を何のために、どのような心で使うのか。私たちの選択や判断、そして目的意識そのものを、明るい将来(フューチャー)のためによく吟味したいと思います。

2015/09/06

落語を聴きにいきました

町内会で催している毎年恒例の「大滝寄席」に行きました。前座はご近所の方々がなさり(含町内会長挨拶)、春風亭ぴっかり☆さん二つ目として出演されました。『悋気の独楽』(りんきのこま)が光り輝き、後半では見事な南京玉すだれもご披露くださいました。聞けばAKB48のオーディションに2度落ちた経験を持つのだとか。それは良かった。落語の才能が危うく埋もれるところでした。真打ちは林家木久蔵さん。『大師の杵』と『お見立て』(=墓違い)をご披露くださいました。最初の演目の枕は自己紹介の話題で、聞けば県内某葬儀社のイメージキャラクターをなさっているとの由。それにしても見事な滑舌と噺の流れ。惚れ惚れしました、現役の牧師にとって口惜しいほどに。

落語を“生”で聞く迫力は、好きな人にはもちろんのこと、初めての人にも伝わるものです。コンサートやスポーツ観戦にも通ずることですが、テレビで視るよりも実際に会場で観たほうが楽しいからです。まさにライブ感覚、生の醍醐味と言えましょう。

最近はインターネットや衛星中継でも教会の礼拝が視聴できるようになりました。便利なことで大いに結構だと思います。が、もしもそのために礼拝を“生”で体験するひとが減っていたとしたら、それは問題です。お身体が許されるなら、ぜひ本物の神さまが臨在している礼拝を体験しに教会へお越しください。

え?行ったことはあるが、そんな体験をしたことはない、ですって?まさか!でもそれなら、とことん話し合いましょう。さすればきっと、()()()ます。ドンドン

2015/08/03

木かげの家の小人たち

『木かげの家の小人たち』という物語があります(いぬいとみこ著)。1913(大正2)年の夏、小学生の達夫は、イギリスに帰国する英語教師マクラクランから2人の「小さい人たち」の世話を託されました。達夫は自分の家の「本の小部屋」の本棚の上に小人たちの家をしつらえ、小人の唯一の食料である牛乳を小さな青いガラスのコップに入れて、毎日かかさず棚の上に置くのでした。達夫が大きくなると、ミルク運びは妹ゆかりに、そして従姉妹の透子へと引き継がれていきます。やがて達夫と透子とが結婚し、二男一女をもうけると、ミルク運びは二人の長男哲、次男信そして妹のゆりへと受け継がれていきました。

一方、その間に小人のバルボーとファーンとの間にも一男一女のロビンとアイリスが生まれます。いずれもすくすくと育ち、小人たちの暮らしにも様々な人間(?)模様が映し出されて行きました。

ところがある日、目つきの鋭い男たちが「本の小部屋」に現れて、本棚から次々と本を引き抜いては運び去り、達夫を「自由主義者」と呼んで逮捕してしまいます。軍人を目指して勉強していた次男の信は、そんな父達夫を非国民呼ばわりし始め、「この非常時に兵隊さんに飲ませる牛乳が不足しているのに、小人たちに牛乳をやることは間違いだ」と言い放ちます。牛乳なしでは生きられない小人たちのために毎日の牛乳を欠かさないのは当然と思っていたゆりは激しく動揺するのでした。

やがて戦局は悪化。病弱なゆりは親戚のいる長野県野尻へ一人(小人たちを連れて)疎開することになります。そこでミルクを手に入れる困難さ、「非国民の子」と後ろ指をさされる辛さを味わいます。小人たちの子どもロビンとアイリスは、外の世界を知り、自立の道を目指して、ハトに乗って飛ぶこともできるようになりましたが、野尻に来てその地に暮らす小人アマネジャキに出会い、初めて自分たち以外に「小さい人」がいることを知るのでした。
 
病気でついにミルクを置くことができなくなったゆり。外に出て、アマネジャキやハトの弥平と共に暮らすことにした小さい人たち。家族や仲間の絆が戦争によって無残に引き裂かれて行きます。そして日本は敗戦。しかし、互いがどんなに強く願っても、バルボーとファーンはマクラクランのもとへ、ロビンとアイリスは日本に残り、親子は離れ離れになってしまうのでした。
 
これは第二次大戦下に「小さい人たち」の命を必死の思いで守りつづけた一家と、その小人たちを主人公にしたファンタジーです。このような描き方で戦争の悲惨さ、特に家族の離散を描く児童文学があったことを知り、とても新鮮な印象を受けました。なお、続編は『くらやみ谷の小人たち』と言い、敗戦直後から安保闘争、ベトナム戦争の時代へと展開して行くとの由。この夏、おすすめの一冊です。

2015/07/05

荒 城 の 月

「ではお先に行きます。お父さんお母さんご機嫌よう――もう目が見えなくなりました。」(滝廉太郎 最期の言葉)

今から112年前(1903629日)、『荒城の月』の作曲で知られる滝廉太郎が結核のため大分市の自宅で亡くなりました。23歳でした。

『荒城の月』は土井晩翠の詩に廉太郎が曲を付けたものです。廉太郎は15歳で東京音楽学校(現東京藝術大学)に入学したのですが、文部省が中学生用教科書「中学唱歌」を編纂することになった時、同校が歌詞を公開し、それに付ける曲を募集したのです。その時、既に音楽学校の研究科生になっていた廉太郎も応募。すると見事採用されました。その内の一曲が『荒城の月』だったのです(廉太郎はこれにより賞金15円を得たと言われる)。

そんな順風満帆の青春時代、廉太郎は東京麹町にあったグレース・エピスコパル・チャーチ(現日本聖公会聖愛教会)で洗礼を受けています。21歳の秋でした。司式は当時の立教学校(現立教大学)の維持・発展に努めたジョン・マッキム主教。廉太郎はその後、オルガンで礼拝奏楽もしていたそうです。

19014月、廉太郎は日本人の音楽家では二人目となるヨーロッパ留学生としてライプツィヒ音楽院(設立者:メンデルスゾーン)に留学しますが、その僅か二ヶ月後に肺結核を発病。一年で帰国を余儀なくされました。その後、療養を続けていましたが冒頭の言葉を遺して就眠したのです。

なお『賛美歌・唱歌とゴスペル』(大塚野百合著、創元社)によると、遠くベルギーのシュヴトーニュ修道院(カトリック&正教)では、廉太郎の「荒城の月」のメロディーで「ケルビム賛歌」なるものが歌われているそうです。滝廉太郎作の讃美歌とは言えませんが、あの「荒城の月」の曲で歌う讃美歌がある、とは知りませんでした。日本でもいつか採用されるといいですね。
 

 
 

2015/06/01

太平洋か、大西洋か

「太平洋」と「大西洋」とを漢字で書く時、「太」と「大」とがまぎらわしくて書き間違えたひとはいないでしょうか。どちらも海の名前なのに、なぜ別の漢字が使われているのでしょう。

日本にも面している太平洋は五大陸(ユーラシア・北米・南米・オーストラリア・南極)に囲まれた世界最大の海です。16紀にポルトガルの探検家マゼランが初めて太平洋を横断した際、荒れがちな大西洋と比べて穏やかな航海であったことから、ラテン語で“Mare Pacificum”(平和な海)と呼びました。その後“Pacificum”が穏やかな様子を意味する「太平」と訳され、太平洋と表記されるようになったのです。

一方の大西洋は、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸、そしてアメリカ大陸の間にあります。この海は古代ローマにおいてOceanus occidentalis” (西の大洋)と呼ばれていました。そのため、これを日本語に訳して「大西洋」となったのですが、アメリカ大陸から見たら「東」にあって混乱するからか(?)英語ではプラトンの著書にちなんで“Atlantic Ocean”と呼ばれています。

ところで185376日、浦賀に東インド艦隊マシュー・ペリー提督率いる黒船が来航した時、太平洋と大西洋、どちらを渡って来たかご存知ですか?正解は大西洋です(&インド洋)。でも多くの人が太平洋と思ったのではないでしょうか。そうとすれば恐らく、黒船が浦賀沖に碇泊して以来歌われた「平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れずという狂歌をご存知であったからかも知れません。つまり「ペリーは太平(泰平)洋を渡ってやって来た」と思い込んでいらしたのでは?

ちなみに、ペリー提督はアメリカ聖公会(英国国教会系)という教派の信徒で、黒船の甲板上で日曜日には必ず礼拝をしていたそうです。また、浦賀沖で歌われたプロテスタント最初の讃美歌は『こどもさんびか改訂版』25番と同じ曲であったと伝えられています。それもブラスバンド付き力満点だったでしょうね。

2015/05/17

ニュートンの模型

アイザック・ニュートンはイギリスの有名な科学者です。今から350年前(1665年)万有引力を発見したと言われています。

ニュートンは幼い頃は不遇でしたが、神を信じ、神の存在をよく他のひとに教えた人でした。

ある日、一人の技師がニュートンのためにすばらしい太陽系の模型を造りました。中央に金メッキの太陽があり、周囲に太陽系の序列順に水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星があります。それぞれの星は歯車とベルトによって連なり、レバーを廻すとそれぞれの軌道で規則正しく運行する仕掛けになっていました。

次の日、ニュートンの友人で神を信じない人がニュートンの自宅にやって来て、太陽系の模型を見つけるや否やレバーを廻し、その精巧な出来映えに感心して尋ねました、「これはすばらしい。この模型を造ったのは誰だい?」と。するとニュートンは真面目な顔つきで「誰もそれを造った者はいない」と答えました。友人は「君は僕の質問を分かっていないな。僕は『誰がこのすばらしい模型を造ったのか』と聞いているんだよ?」と言いました。それでもニュートンが「そんな人はいない。偶然できていたのさ」と答えると友人は怒って「君は僕を馬鹿にしているのか。そんな筈はない。誰かが造ったからここにあるんじゃないか。これを造った人は天才的な人物だ。それが誰なのかを教えてくれよ!」と言いました。

ニュートンはその友人の肩に手を掛けてこのように言いました、「君はこの模型が偶然にできたのではない、と言ったね。誰かが造ったからここにある、そう言ったね。そうさ、これは単なる模型だ。しかし、模型でさえそうなのだから、君は本物の太陽系をお造りになった神を認めるべきだよ」と。

この友人はニュートンに説得されて、宇宙の創造主である神さまを信じて洗礼を受けました。そして、このニュートンの自宅が現在、ウェストミンスター公立図書館になっているそうです。

2015/04/05

特攻機から新幹線へ

開業したばかりの北陸新幹線に乗りました。その車両は「W7系」と言い、とても快適な乗り心地でした。新幹線の車両は全部で16種類あるのですが、その最初の車両「0系」の開発には一人のキリスト者が大きく関わっていることをご存知ですか?それは三木忠直というひとです。三木は東大卒業後、大日本帝国海軍の技術士官になりましたが、間もなく第二次世界大戦が勃発。この戦時中に横須賀の海軍航空技術廠などで、ロケット特攻機「桜花」の機体設計を担当しました。その戦果が新聞で発表されると三木は感激し、桜花開発の成功を“賜物”とさえ呼びました。

ところが、その年の815日に日本が敗戦。三木は、自分が特攻機を設計して若者達を死に追いやった罪責の念に苦しみます。そこで、既にキリスト者となっていた母親と妻の勧めもあって教会に通い始め、「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來たれ、われ汝らを休ません」との聖書の言葉に触れ(マタ11.28)、同年12月に中渋谷教会で受洗しました(後に鎌倉雪ノ下教会に転会)。それから国鉄に移り、「これこそ純然たる平和産業」と考え、車両構造研究室長として新幹線を研究するのです。そしてついに1964年、航空機の特徴である流線形を先頭に採り入れて空気抵抗を減らした「0系」電車を発表したのでした。

20005月、NHKの『プロジェクトX』という番組の中で東野尚志鎌倉雪ノ下教会牧師(当時)の説教のシーンが映り、何事かと思って見入りました。それは「執念が生んだ新幹線/老友90歳・飛行機が姿を変えた」という題の特集でした(第7回放送)。その中で三木さんがインタビューに答え、「とにかく戦争はもうこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんですよ」とお話しになっていたことが今でも忘れられません。

特攻機から新幹線へ。北陸新幹線に乗りながら、私は戦争の悲惨さと三木さんの悔い改め、そして信仰に思いをめぐらせておりました。

ちなみに、今年420日は三木忠直兄就眠10周年記念日です。

2015/03/01

ヨナタンとダビデ

ヨナタンは、イスラエルの初代の王サウルの息子つまり王子です。そのため、誰もがヨナタンを次の王様になる人と考えていました。けれどもヨナタンは、父サウルの家来の一人、それも何度戦いに行ってもその都度目覚ましい戦果をあげて帰還するダビデを尊敬していました。そして「この人こそイスラエルの王に選ばれている人だ」と信じていたのです。また、ダビデも王子ヨナタンにいつも敬意を表しており、二人は敬愛と友情とによって堅く結び合わされておりました。

ある日、イスラエルの人々がダビデをこのように讃えているのをサウル王は聞きました、「サウルは千を倒し、ダビデは万を倒した」と。この歌のため、サウルはダビデに嫉妬し、ダビデを亡き者にしようと企てます。しかしヨナタンは、父サウルがダビデに危害を加えようとしても、自分はダビデに味方することを誓うのです。また、たとえ自分が死んでも、その子孫をダビデが守ってくれるように頼み、ダビデもこれを引き受けました(サム上20.12-15)。その後サウルは、ヨナタンとその母までも、ダビデを擁護する悪人と見なして殺そうとします。何とかヨナタンは難を逃れますが、どれほど深い悲しみに襲われたことでしょう。それでもヨナタンは、誓ったダビデヘの忠誠を守るのです。父サウルはもとより、次の自分の王位をも守ろうとはせず、ただダビデとの友情をこそ、大事にする道を選んだのでした。

このヨナタンがペリシテとの戦いでサウルと共に戦死し、ダビデは真友を失うことになります。けれどもヨナタンと交わした約束を忘れず、ダビデはサウル王家から王位を譲られた際、ヨナタンの遺児メフィボシェトを厚遇しました(サム下9)。メフィボシェトは足が不自由で、当時のイスラエルでは差別されて当然でしたが、ダビデはいつも自分と食事を摂るように王命を下したのです。それは「ヨナタンの子孫を守る」という約束ゆえでした。

ヨナタンとダビデとの友情を聖書は「契約」と呼んでいます。人格的な関係は、感情という不確かなものにではなく、契約すなわち確かな言葉に基づいて規定されるものなのです。この聖書的感覚を、私どもの日常生活でも大事にしたいものですね。