2018/11/04

きよしこの夜、二百年

今からちょうど200年前、クリスマスソングで有名な「きよしこの夜」の初演が行なわれました。その日以来200年間、この歌によって多くの人々が慰められ、また、世界で最初のクリスマスの光景を思い起こして来ました。

作詞したヨーゼフ・モールという人はカトリック教会の司祭(神父)です。モールは、大学の聖歌隊と修道院とにおいて、歌手とバイオリニストとしての才能を開花させたほどの大の音楽好きでした。そして、このモールの二つ目の派遣先であるオーベルンドルフの聖ニコラス教会に、フランツ・クサーバー・グルーバーというひとがいました。グルーバーは、小学校の教師であると共に教会のオルガニストでもあったことから、すぐにモールと意気投合。二人は生涯の友となります。そして1816年のある日、既に24歳になっていたモールが思い立ち、クリスマスの出来事を全6節からなる詩文「きよしこの夜」で表現してみせました。これに感動したグルーバーが1818年、詩にメロディーをつけ、ついに「きよしこの夜」が歌われることになったのです。


ただし、この歌は、ミサのために作られたのではありません。当時のカトリック教会では、ミサの中で歌ってよい聖歌や讃美歌というのは決められていて、勝手に変えてはいけませんでした。しかもギターの伴奏と、二つのソロと合唱用に作曲されたことを考えると、新曲「きよしこの夜」は明らかにミサのために作られたものではなかったのです。なぜなら、ギターは当時、居酒屋でよく演奏される楽器で、ミサには不適当であったからです。そのために「ネズミがオーベルンドルフの教会オルガンの送風装置をかじったから」という話が実しやかに伝えられたこともあったのですが、これも実際には、オルガンは演奏できないほど壊れていたわけではなく、単に修理の手配中であっただけです。モールとグルーバーは当初から、ミサの後にクリッペ(粘土や張り子で作る人形でキリスト誕生シーンを表したもの)の前で歌う、ギター伴奏の歌を作る計画でいて、1818年のクリスマスにその詞と曲とが揃ったわけです。


救い主キリストの誕生を喜ぶ心は、二千年前のベツレヘムの家畜小屋で、エサ箱を覗き込んだ羊飼いたちの内に宿りました。彼らがそこから日常の生活に戻って行っても、それは相変わらず貧しい日々でしかなかったのに、救いを喜ぶ心だけは変わることなく宿り続けた筈です。だからこそ、やがて全世界の人々の魂を揺るがす「きよしこの夜」も生まれたのです。


1819年、モールはオーベルンドルフを去りましたが、グルーバーとの親密な友情は一生続きました。また、第一次世界大戦の最中、塹壕をはさんで対峙していた英仏と独との両軍でも、クリスマスには戦闘をやめ、兵士たちがそれぞれの母語で「きよしこの夜」を歌ったとか。救いを喜ぶ歌こそが本当の平和を造り出し、友情を保たせる歌である、と言えましょう。

2018/07/02

闇を光に

近藤宏一さんは、まだ偏見が色濃く残る時代に、ハンセン病を生きた一人のキリスト者です。この名前は、実は本名ではありません。十一歳のとき、父親に連れられて、ハンセン病療養所長島愛生園に入園する際、家名を汚さぬよう名前を変えることを求められたのです。

入園当初、治まっていた病状は、赤痢に罹患したことをきっかけに急速に悪化し、ついに失明に至ります。視力を失ったことは、近藤さんを「苦しみのどん底へ落とし入れ」ました。そんな絶望の日々の中、ある経緯から読書好きの病友の聖書の朗読を聴くことになります。そして「ヨハネ福音書」第九章の決定的なみ言葉に出会うのです。イエス様は、道すがら、生まれつきの盲人に目をとめられます。「先生、この人が盲人なのは、誰が罪を犯したためですか」と尋ねる弟子たちに、イエス様はお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。

近藤さんは、「全身を貫き通す一つの力を、意識」します。そして園内の教会に通い始め、やがて受洗。「聖書をどうしても自分で読みたい」という強い思いに駆られます。しかし乗り越えねばならない困難は、失明だけではありませんでした。ハンセン病に侵された指先には感覚がなく、点字を指で読み取ることは無理だったからです。近藤さんは、「知覚の残っている唇と、舌先で探り読むこと」を思いつきます。しかし点字に唇と舌先で触れ続けることは、「コンクリートの壁をなでる」に等しいものでした。唇は破れ、紙面はしばしば血に染まったといいます。「舐めるように読む」という譬えがありますが、近藤さんは、文字通り、そのようにして聖書を読んだのです。


イエス様から与えられた力は、近藤さんを同病者からなる楽団「青い鳥」の結成へと導きます。健常者には想像もつかない血のにじむような努力を重ねて、やがて楽団は、各所で演奏会を催すまでに成長します。楽団の演奏は、多くの人に感動と勇気を与えました。神谷美恵子もその一人です。神谷は、ロングセラー『生きがいについて』の中で、指揮者の近藤さんと楽団員のことをこう評しています。「指揮者の、必死と形容するほかないような、烈しく、きびしい指導のもとに全員が力をふりしぼって創り出す協和音。これほどすばらしい生命の光景を筆者はあまりみたことがない」。


なんという過酷な人生、そしてなんという祝福された人生でしょうか。私たちは、病が取り去られることを、奇蹟と考えがちです。そういう意味での奇蹟は、ここには起きていません。しかし近藤さんの人生には、闇を闇のまま光に変えられる神のいっそう味わい深い奇蹟が確かに起きている、そう思うのです。

2018/05/04

おんぶはこりごり

5月と言えば母の日。そう思うのは筆者だけではありますまい。母の日の発祥がキリスト教会であることは(たぶん)良く知られていると思うので別の機会に書くとして、今回は母の日に(特にパパさんたちが)子どもたちに読んでやってほしい絵本を紹介します。

ピゴットさんには妻と2人の男の子がいました。ピゴットさんは毎朝「ママ、あさごはんは、まだかい」と言い、息子たちは「ママ、あさごはん、まだー」と言います。この男3人が出掛けた後、ママは暗い表情で後片付け、ベッドメイキング、掃除機掛けをしてようやく出勤するのでした。そして夕方になると、ママは再び朝と同じ言葉を男3人から聞かされ、皆が夕飯を終えると暗い表情で皿洗い、洗濯、アイロン掛け、そして朝食の用意を済ませます。その姿を毎日、見てか見ずしてか、男どもはテレビの前にあるソファーでくつろぐのでした。

ところがある日、ママが置き手紙を残していなくなります。手紙には「ぶたさんたちのおせわはもうこりごり!」と書いてありました。その手紙を読むパパと子どもたちとはいつの間にか全身が豚になっていました。そしてこの豚どもは「しかたがない、ごはんをつくるか」と言って取り掛かりますが当然ながらひどい味。次の日も、そのまた次の日も、ママは帰ってきません。するとさぁ大変、家中が豚小屋のようになりました。服も汚れて臭くなり、とうとう料理の材料が無くなります。パパはブーブー唸りながら言いました、「はいまわって、くいものをさがすんだ」と。言われた通りにする息子たち。ちょうどその時でした。ママが帰って来たのです!3匹の豚どもは涙声で言いました、「おかえりなさいませ、おかあさま」。

それからのパパと子どもたちとは見違えるように手伝うようになり、料理をするのが楽しいとまで思うようになりました。その実に人間らしい笑顔を見て、ママは幸せを感じます。そして「ママだって、車のしゅうりができるのよ」と言って明るく微笑むママになりました。

絵の細部にも豚の絵がたくさんあるので、それを探すのも一興ですが(ぜひ父親が)この絵本を子どもたちに読み聞かせてやってください。そして子どもたちと共に祈ってほしいと思います、「神さま、子どもたちにすばらしい母親をくださってありがとうございます。そしてこの私にすばらしい妻をくださってありがとうございます。この女性が生涯、明るい笑顔でいられるよう、私たちが為すべきことを果たさせてください」と。母の日にこそ。