2020/02/01

恐れることを 恐れるな

親鸞の教えとキリスト教には似たところがある、とよく言われます。親鸞は漢訳の聖書を読んでいたのではないか、という説もあるくらいです。その親鸞から直接聞いた言葉を、門弟の唯円が書き留めたとされる『歎異抄』の第九条に、次のような味わい深い二人の対話が出てきます。まず唯円が口火を切り、親鸞にこう問いかけます。「念仏をしていても、躍り上がるような喜びの心は湧いてこないし、早く浄土に往生したいという心も起こってきません。どう考えたらよいのでしょう」。この思い切った、しかし正直な唯円の告白に、親鸞は驚くべき、しかし等しく正直な応答をしています。「この親鸞もなぜだろうと思っていたのですが、唯円、あなたも同じ心持ちだったのですね」。阿弥陀様の救いを信じている。だから極楽往生は間違いない。なのにいっこうに死など恐ろしくないという境地には達しない。でもそんな煩悩まみれの私たちのためにこそ、阿弥陀様は来てくださるのだ。親鸞は、そう言いたかったのだと思うのです。

これとよく似たエピソードを、カトリック作家の遠藤周作さんが、『変わるものと変わらぬもの』というエッセイ集の中で書いています。先輩作家の椎名麟三が、洗礼を受けた後に、「これで、ジタバタして死ねますよ」と語ったというのです。この椎名の言葉を、遠藤さんは、こう解き明かしています。「「すべてを神に委ねたてまつる」とは自分の立派な部分だけでなく、弱さ、醜さすべてを神という大きなものにせることである。椎名さんが、「これでジタバタして死ねますよ」と言ったのもそういう意味だったにちがいない」。


「恐れるな」が、聖書の中心的なメッセージの一つであることは間違いありません。聖書の中には、実に365回、この言葉が出てくるそうです。とすると復活を信じているのだから、死を前にしても、恐れることなく泰然自若としてそれを受け入れていく、これこそがキリスト者のあるべき姿だ、そのようにも思えてきます。でも本当にそうなのでしょうか。神以外のすべてを恐れる必要がないとすれば、その「すべて」には、「恐れること」それ自体も含まれると考えることができるでしょう。つまり「恐れるな」というメッセージの豊かな広がりは、「恐れることを恐れるな」というところにまで及んでいるように思うのです。

自分に死が迫ったとしたら、泰然自若としてそれを受け入れていく自信は、とうてい私にはありません。ジタバタしてしまうような気がします。みっともない振る舞いをしてしまいそうな気がします。でもイエス様は、「そんな情けないお前のためにこそ、私は来たのだよ」と言ってくださるのではないかと思うのです。そしてイエス様がそう言ってくださるなら、少しは勇気を出して死と向き合うことができそうな気がするのです。