2023/02/05

失敗という宝物

医療業界や航空業界は、一つのミスが、文字通り、命取りになりかねない業界です。だから、組織として、失敗をゼロに近づける真摯な努力が求められます。では、ミスを減らすには、どうすればよいのでしょうか。すぐ思いつくのは、「信賞必罰」をもって臨むこと、すなわち、ミスを厳しく非難し、懲罰を与えて、規律を正すことです。この対処法は、一見、良さそうに思えます。しかし、それは、本当に効果的なのでしょうか。

マシュー・サイドは、『失敗の科学』という本の中で、大学病院の複数の看護チームを比較した興味深い調査結果を紹介しています。確かに、懲罰志向が強いチームには、看護師から報告されたミスの数が、少ない傾向が見られました。しかし、これは、報告に上がってこないだけで、ミスの実数が少ないことを意味しているわけではありません。実際、詳しい実態調査が明らかにしたのは、懲罰志向のチームの方が、ミスの実数は多かったということでした。それとは反対に、非難傾向が低いチームの方が、実際に犯したミスの数は少なかったのです。

組織論という学問分野で、近年、組織の成長のためには、「心理的安定性」が大事だということが言われています。失敗が起きると、私たちはすぐ犯人捜しをし、その人を罰しようとします。しかし、罰されれば、人は失敗を隠します。逆に、失敗が許容され、包み隠さずに話すことのできる心理的安定性が組織にあれば、失敗は貴重な学習資源となり、組織は失敗から学んで、成長していくことができるというのです。失敗を減らしたければ、失敗を許さなければならない。面白い逆説です。

福音書を読んでいて、不思議な印象を受けることの一つに、弟子たちの失敗が赤裸々に描かれているということがあります。たとえば、ペトロが、イエスの仲間だろうと疑われて、「そんな人は知らない」と三度も否認したことは、四つの福音書のすべてに記されています。第一の使徒であり、後に初代のローマ教皇になるペトロですから、その生涯を輝かしいものに脚色するとか、少なくとも恥ずべき失敗については記さないという選択がありえたはずなのに、福音書はそうしていません。これほど赤裸々に描かれているのは、ペトロ自身が自分の過ちを、繰り返し語ったからだと思うのです。そして、初代教会には、そうすることのできる心理的安定性が確かに存在していたのではないでしょうか。イエス様の弟子たちが、自分はこんな失敗をした、こんな風にイエス様に叱られた、とまるで自慢話でもするかのようにわれ先に語り合っている様子を想像すると、私は、なんだかちょっと楽しい気持ちになってくるのです。

では、初代教会は、なぜこのような組織文化を持つことができたのでしょうか。思い出されるのは、「ルカによる福音書」第2232節のみ言葉です。イエス様は、ペトロの離反を知りながら、それを非難するのではなく、かえってこう祈られたのでした。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。私は、イエス様のこのとりなしの祈りに、その秘密があるのではないかと思うのです。