2019/07/02

33個めの石

2007年にアメリカで起きたバージニア工科大学銃乱射事件を覚えていますか。アメリカでは、たびたび銃乱射事件が発生していますから、どれがどれだか区別がつかないかもしれません。この事件では、30人以上の学生・教員が殺され、犯人の学生も自殺しました。犯人は、動機を述べたビデオと自分の写真をテレビ局に送りつけていたため、その映像は、世界中で流されました。なので、記憶になくても、多くの方が目にされたはずです。

哲学者の森岡正博は、『33個めの石』というエッセイの中で、事件後に起きた次のような印象深い出来事について記しています。「バージニア工科大学事件の次の週に、被害者の追悼集会がキャンパス内で行われた。キャンパスには、死亡した学生の数と同じ33個の石が置かれ、花が添えられた。実は、犯人によって殺されたのは32人である。『33個めの石』は、事件直後に自殺した犯人のために置かれたのである」。実際には、石を置く人がいれば取り去る人もいるといったせめぎ合いもあったようなので、集会の参加者たちの思いが一つであったとは言えませんが、重い問いかけを持った石であることは間違いありません。


ところで、イエス様の弟子の中でもっとも有名なのは、誰でしょうか。ペトロでもパウロでもなく、ユダではないかと思います。キリスト者でない人たちの間でも、ユダは、裏切り者の代名詞になっていますし、キリスト者にとっても、銀貨三十枚でイエス様を裏切り、最後は自殺したわけですから、これ以上はない罪人ということになるでしょう。では、そんなユダにも「赦し」があるのか。神学者の間でも、答えは様々です。

アウグスティヌスが与えているのは、とても厳しい答えです。ユダは、神の憐みに絶望して後悔したかもしれないが、それは救われるための悔い改めではなかった。それどころか、ユダは、自殺することで、神から与えられた命を絶つという罪を増し加えてしまった、と言うのです。

これに対して、カール・バルトは、人間の罪が増し加わるところにこそ、神の恵みも増し加わるとして、正反対の答えを与えています。神様は、棄てられた人間こそが福音を聞き、また選びの約束を聞くようになることを望んでおられる。神様は、ユダにもこの福音が宣べ伝えられることを欲しておられるのだ、とバルトは言います。

私は、バルトの答えに共感を覚えます。それは、とても利己的で臆病な理由によるものです。私の心の中にもユダが棲んでいるのでないか、もしそうなら、ユダが赦されないと私も赦されないのではないかと懼れるからなのです。イエス様は、ユダのためにも石を置いてくださる。そしてその小さな石は、私のための希望の石でもあるように思うのです。