2016/03/06

イエスさまとトマス

20世紀ドイツを代表する彫刻家にエルンスト・バルラハというひとがいました。このひとは反戦主義に立った作品を残したことから、そのすべてがナチスから退廃芸術と見なされたまま、生涯を終えました。

このバルラハの作品のひとつに『再会』という彫刻があります。主イエスが真っ直ぐにお立ちになって、ご自身にもたれ掛かるようにしているトマスをギュッと抱きかかえています。普通、トマスのような熱い男なら、若くて屈強でがっしりとしたイメージを抱くものだと思いますが、バルラハの彫ったトマスは違いました。明らかに主イエスよりも年上か、年配の老人にすら見えるほど弱々しいのです。かろうじて何かを耐え抜いてきたけれども、主イエスに再会したとたんに、体中の力が抜けてヘナヘナと崩れ落ちそうになっている、そのような姿なのです。しかも、主イエスの手の釘跡に指を入れようともしていません(ヨハネによる福音書20.24-29参照)。自分よりも背の高い主イエスの肩に自分の手をかけ、下から覗き込むようにして、主イエスのお顔に自分の顔を直面させるように近づけています。まるで「本当にあなたなのですか?」と問いかけているようです。いや、その問いを自ら掻き消すかのように、「わたしの主、わたしの神よ!」という信仰を告白しているようにも見えます。そして、そんな信仰と不信仰とが入り交じっているようなトマスの全存在を、主イエスが両手でガッシリと支えていらっしゃる。その手の甲には痛ましい釘跡が残っている。

バルラハの言葉に「わたしが神を持っているのではなく、神がわたしを持っていてくださるのである」(“Ich habe keinen Gott, aber Gott hat Mich”.)という言葉があります。その言葉は『再会』の心を解釈する上でたいへん重要です。つまり、トマスがその信仰によって神を捕らえたのではなく、神がトマスに信仰を与えるほどに捕らえてくださっている、ということです。私たちもイエス=キリストの神を捕らえよう、理解しようとする必要はありません。そうではなくて、イエス=キリストの神に捕らえられていると信じ、この神に自分の全てが理解されていると信じるだけで良いのです。