2019/01/03

それがもう奇蹟

10年ほど前、トルコを旅したことがあります。カッパドキアやパムッカレといった定番の観光スポットの奇景も確かに印象深いものでしたが、それ以上に深く記憶に焼きついているのは、内陸部をバスで横断したときの荒涼たる山々の光景でした。山という山が、木のほとんど生えていないハゲ山で、生命感が皆無なのです。日本では、山と言えば、総じて緑豊かで、そこを住処とする獣や鳥や昆虫の生命が横溢しているというのが常識ですから、まさに真逆です。

トルコは、使徒パウロの伝道旅行の中心的な舞台ですが、聖書の中心的な舞台であるイスラエルの山々はどうなのでしょうか。私は残念ながら、まだイスラエルに行ったことはないのですが、トルコの山々と同様であるようです。『荒れ野に立つイエス』という本の中で、前島誠さんは、「詩編」第121篇の「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。」という句を引き、こう解説しています。「ここで詩人が見たものは、いったいどんな山だったのか。それはゴツゴツした岩山、その前に立つだけで希望が萎えてしまう、まるで生命を拒否するかのように、厳然と立ちはだかる山だった」。このような厳しい風土は、生命があることは決して当たり前のことではなく、それ自体がひとつの奇蹟なのだという洞察を育むように思うのです。これは、生命が溢れていることが当たり前の風土に生きる日本人には、なかなか理解しづらいことなのかもしれません。


聖書は、「創世記」の冒頭で、はっきりと生命を含めた神による世界創造を語っています。神がそう意志されたからこそ、この世界はあり、私たちには生命が与えられたと言うのです。そして、神は、自らの創造の業を見て、こう言われました、「それは極めて良かった」。ここに示されているのは、存在の大いなる肯定です。私たちが存在しているとは、私たちの存在
が神によって肯定されているということです。私たちが存在しているなら、そうさせてくださった神が私たちを憎んでいるということはありえません。だから、神によって肯定されているとは、神から愛されているということなのです。

私たちの人生が、生命という最初の贈り物から始まったとすれば、贈り主への感謝の歌を歌うことは、私たち人間の大切な仕事のひとつということになるでしょう。そう言えば、スピッツの草野マサムネさんも、佳曲『群青』の中でこう歌っていました。「僕はここにいる、すでにもう奇蹟、花が咲いているよ。僕はここにいる、それだけで奇蹟、しぶきを感じている」。超自然的な現象だけが奇蹟ではありません。本当なら私はいなかったかもしれないのに、神の不思議なはからいで「僕はここにいる」。それがもう奇蹟なのです。