2014/09/01

ハリーポッターについての一考察

先月、家族たちがUSJに行きました。お目当ては映画化されたファンタジー小説『ハリー・ポッター』シリーズのアトラクションです。私は諸般の事情から自宅で留守番。本稿をしたためていました。

著者のJ.K.ローリングはスコットランド教会の信徒です(当教会と同じ長老教会@プロテスタント)。『ナルニア国ものがたり』のC.S.ルイスや『指輪物語』の著者J.R.R.トールキンの影響を受け、ポッターシリーズを手掛けました。ただし、ルイスやトールキンとは違い、伝道目的でこのシリーズを書いたわけではなかったようです。そのためか、第一巻が出版されるとすぐ、この作品に対する批判がキリスト教会(特に保守派)から上がります。「魔術の世界を肯定的に描くのは問題だ」と言うのです。当初はカトリックの教皇(いわゆるローマ法王)も警戒を呼びかけたほどでした(本物のエクソシストがおいでですからねえ)。なるほど、確かに聖書が魔術を禁止していることは明らかです(申18.10-11など)。しかし、ポッターシリーズに描かれている魔術は、聖書が禁止している魔術とは異質なものなので、問題にすること自体がおかしいと思います(そんなことを言っていたら、ドラクエだってできなくなります)。

そこで、少し角度を変えて、このシリーズをご覧頂くことをお勧めします。実は現在、キリスト教会からの批判は沈静化しているのですが、その理由は、既にこのシリーズが完結しているだけではなく、完結篇(第7巻)の最後で、ローリングが伝えようとしていたテーマが聖書のメッセージと重なっていたからである、と言われているのです。それは「最後に滅ぼされるべき敵は死である」、「宝のあるところに私たちの心もある」というものです。ですから、もしも子どもたちがこのシリーズに興味を示したなら、大人はそれを教育の機会と捉えれば良いと思います。自己犠牲、英雄的人生、友情の力などが出てきたら、拍手をすれば良いのです。

ただし、USJで売られている杖(3500!)を「これはボクのパワーアイテムだ」と思って普段から持ち歩くようになったらご用心。そうなると、これは、お守りやミサンガ、パワーストーン同様、造り主なる神への信頼を小さくする邪魔物です。呪文を初めとする魔術そのもの、或いはそれらが提示している世界観に焦点を合わせるのではなくて、作品に込められているメッセージ(テーマ)にこそ関心を払わせてやってください。