2014/03/10

賤子(しずこ)と小公子

バーネットの児童小説“Little Lord Fauntleroy”を『小公子』と訳し、初めて日本に紹介したのは若松賤子というひとです。(「若松」が故郷会津の地名、賤子が「神のしもべ」を意味するペンネーム)

今から150年前(1864年4月6日)賤子は会津藩士の長女「松川甲子」(まつかわ・かし)として生まれました。幼少期から既に苦労の連続だったようですが、温かい親戚の大川家に養女として引き取られ、現在のフェリス女学院で学ぶことになります。その在学中、13歳で現在の日本キリスト教会横浜海岸教会で洗礼を受け、卒業後もそのままフェリスの教師になりました。そして25歳の時に巌本善治(いわもと・よしはる)と結婚。善治もキリスト者で『女学雑誌』を主宰しており、そこに賤子の翻訳で『小公子』が連載されたのです。しかし、折しも『小公子』が訳出、連載され始めた1890年(明治23)とは、大日本帝国憲法の施行年、教育勅語制定の年でした。そんな軍国主義の時代にも拘らず、賤子が所属していた横浜海岸教会は同年12月に「我らが神と崇むるイエス・キリストは、神の独り子にして、人類のため、その罪の救いのために、人となりて苦しみを受け、我らが罪のために、完き犠牲をささげたまえり。…」という言葉で始まる「信仰の告白」を謳ったのです。自分たちが神として礼拝するのはイエス=キリストであって、この方以外の何者をも神として崇めない、という表明です。そしてもちろん、教会員たる賤子もまた、この信仰に生きたのです。

残念なことに、賤子は心臓麻痺のために33歳で早世するのですが、夫善治には常々「葬儀は公にせず、伝記は書かず、墓にはただ賤子とだけ銘してください。人がもしきいたら、一生キリストの恩寵を感謝した婦人とだけ言ってください」と遺言していたそうです(高見沢潤子『二〇人の婦人たち』教文館)。そこには、フェリスの校長ブースに語ったと伝えられ、今でも生家に文学碑として残されている言葉と同じ響きを聴き取れると思います。

     「私の生涯は 神の恵みを 最後まで心にとどめた 
     ということより外に 語るなにものもない」若松賤子