2018/05/04

おんぶはこりごり

5月と言えば母の日。そう思うのは筆者だけではありますまい。母の日の発祥がキリスト教会であることは(たぶん)良く知られていると思うので別の機会に書くとして、今回は母の日に(特にパパさんたちが)子どもたちに読んでやってほしい絵本を紹介します。

ピゴットさんには妻と2人の男の子がいました。ピゴットさんは毎朝「ママ、あさごはんは、まだかい」と言い、息子たちは「ママ、あさごはん、まだー」と言います。この男3人が出掛けた後、ママは暗い表情で後片付け、ベッドメイキング、掃除機掛けをしてようやく出勤するのでした。そして夕方になると、ママは再び朝と同じ言葉を男3人から聞かされ、皆が夕飯を終えると暗い表情で皿洗い、洗濯、アイロン掛け、そして朝食の用意を済ませます。その姿を毎日、見てか見ずしてか、男どもはテレビの前にあるソファーでくつろぐのでした。

ところがある日、ママが置き手紙を残していなくなります。手紙には「ぶたさんたちのおせわはもうこりごり!」と書いてありました。その手紙を読むパパと子どもたちとはいつの間にか全身が豚になっていました。そしてこの豚どもは「しかたがない、ごはんをつくるか」と言って取り掛かりますが当然ながらひどい味。次の日も、そのまた次の日も、ママは帰ってきません。するとさぁ大変、家中が豚小屋のようになりました。服も汚れて臭くなり、とうとう料理の材料が無くなります。パパはブーブー唸りながら言いました、「はいまわって、くいものをさがすんだ」と。言われた通りにする息子たち。ちょうどその時でした。ママが帰って来たのです!3匹の豚どもは涙声で言いました、「おかえりなさいませ、おかあさま」。

それからのパパと子どもたちとは見違えるように手伝うようになり、料理をするのが楽しいとまで思うようになりました。その実に人間らしい笑顔を見て、ママは幸せを感じます。そして「ママだって、車のしゅうりができるのよ」と言って明るく微笑むママになりました。

絵の細部にも豚の絵がたくさんあるので、それを探すのも一興ですが(ぜひ父親が)この絵本を子どもたちに読み聞かせてやってください。そして子どもたちと共に祈ってほしいと思います、「神さま、子どもたちにすばらしい母親をくださってありがとうございます。そしてこの私にすばらしい妻をくださってありがとうございます。この女性が生涯、明るい笑顔でいられるよう、私たちが為すべきことを果たさせてください」と。母の日にこそ。

2018/03/05

ありがたいか、当然か

オーストラリアでは自家用車で幾つもの州をまたいで旅行をする人が多いそうです。しかし、隣りの休憩所まで何百キロ、という看板も珍しくはないとのこと。そのため、休暇の時期になると様々な休憩所が設けられ、旅行者にボランティアたちが無料のコーヒーをふるまう、と聞きました。ステキなおもてなしですね。

ある夫婦が、これらのもてなしも楽しみにしてドライブ旅行に出掛けました。ところが、ある休憩所で2ドルの請求をされてしまいます。理由を聞くと、横の看板を指差されました。そこには「運転手だけ無料」と書かれてあったのです。助手席に座っていた夫はムッとして、お金を払いながら「紛らわしい!」と捨て台詞を残し、立ち去りました。しかし、車中で妻からこのようにたしなめられます、「コーヒーは好意の恩恵なのに、あなたはそれを当然の権利であるかのように振る舞った」と。その通りでした。助手席の夫は妻に頼み、先ほどの休憩所まで車で戻り、謝罪しました、「無料のコーヒーはあなたからのプレゼントでした。もらって当然のものではなかった。実にありがたく、感謝すべきものでした」と。


与えられているものに対して「ありがたい」と考えるか「当然」と考えるか。それにより、人の生き方や態度は随分と変わるように思います。コーヒーだけではありません。ユダヤ人は、どんなに簡素な食事でも、食べるときには必ず感謝する習慣をつけていました。「わたしたちの神、主よ。大地から日々の糧をもたらす全世界の王よ、あなたをほめたたえます」と。食べ物はすべて神さまの恵みですからこのように受け止めて祈るのは当然と言えば当然です。しかし、いつでもどこでもどんな食事であっても、このように受け止め祈るというのは、その習慣が身に着いていないと難しいことでしょう。それだけに、このような祈りを聴きながら育つユダヤの子どもたちは本当に幸せだと思います。ちなみに、この祈りはモーセがイスラエルの民を約束の地へと導いたときにまで遡れるのだそうです。「(神が)良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」(申8.10)。そしてこのような祈りが「自分たちの繁栄は自分たちの努力の結果」と考える傲慢を戒める知恵を生みました(申8.17-18)。


日頃から受けている何気ないサービスに、真摯に感謝する心を抱きたいものですね。ボランティアに対してもそれを当然(当たり前)ではなく、「ありがたい」(有り難い)こととして受け止めていきたいと思います。

2018/01/02

大胆に罪を犯しなさい

横須賀出身のマンガ家福本伸行さんの傑作『カイジ』は、主人公のカイジをはじめ一度は人生に敗れた者たちが、一発逆転を狙って、命がけのギャンブルに挑むというお話ですが、その第7巻に次のようなゲームが出てきます。2棟の隣り合った高層ビルの間に平均台ほどの幅の鉄骨が渡されています。これを首尾よく渡り切ったら、大金が手に入ります。それを元手に、人生をやり直すことができるのです。しかし、もちろん、落ちてしまえば命はありません。

この鉄骨が地上1mのところに渡されているのなら、誰でもラクラク渡り切ることができるでしょう。でも、地上100mでは、そうはいきません。意を決した何人かが、渡り始めますが、もし落ちたらと考えたとたん恐怖にとりつかれ、足がすくんでしまいます。こうして、ほとんどの挑戦者が落ちてしまうのです。失敗してはいけないと思うと失敗し、失敗しても大丈夫と思うと失敗しない。面白い逆説です。セーフティーネットがあれば、人間は勇気が出せるのです。


500年前、マルティン・ルターは、「信仰義認」を説きました。人が神様の前で義と認められるのは、その人の正しい行いによってではなく、ただ信仰によってのみなのだ、と教えたのです。ただし、「信仰によって」というのも、「私が信仰を持つことによって」と解してはならないでしょう。それでは、信仰という私の正しい行いによって救われるということになってしまうからです。そうではなく、信仰それ自体も、神様の導きによるものと考えるべきです。キリストは「おまえはもう赦されている」とおっしゃってくださる、そのことを信じさせていただくのだ。そうルターは教えたのだと思います。

そのルターに「大胆に罪を犯しなさい」という言葉があります。ルターが、学究肌で、改革運動を担う運動家としては少し慎重すぎる友のメランヒトンに贈った言葉です。もちろん、ルターは、罪を犯すことそれ自体を奨めているわけではありません。私たちはキリストによって、すでに罪を償われている。だから、友よ、失敗を恐れず、大胆に歩め。そういう友情に満ちた励ましなのです。

神様が求めておられるのは、失敗をしないように、安全な場所に閉じこもってしまうような生き方ではなく、はたまた「私、失敗しないので」と言えるほど、自分を完璧に磨き上げるような生き方でもありません。罪を犯さざるをえない私たちが、それでもみ心にかなわんとして果敢にチャレンジするような生き方だと思うのです。神様は、私たちのためにセーフティーネットを用意してくださっているのですから。