2025/08/03

そこに愛はあるんか

覚えておられる方も多いと思いますが、大地真央さんが「そこに愛はあるんか」と問いかけるCMがありました。広告主を考えれば、かなり屈折したギャグセンスと言わなければなりませんが、それはともかくとして、この問いが、キリスト者にとって正面から受け止めるべき大切な問いであることは間違いないでしょう。さて愛はどこにあるのでしょうか。

ひとつの手がかりとして、私のささやかな経験を出発点にしてみましょう。先日、住んでいるマンションで、こんな経験をしました。エレベーターに乗り込んだところ、床に誰かが捨てた使用済みのマスクが落ちていたのです。共用の場所を汚すことを何とも思わない落とし主の身勝手さに、私は思わずムッとしたのでした。ところがです。後から乗り込んできた女性が、ごく自然にマスクを拾うと、自分の階で降りていったのです。怒りは感じても拾おうなどとはつゆ思わなかった私は、自分を恥じるとともに、その女性のふるまいに薫風が吹き抜けていったような爽やかさを感じました。その日は一日、とても気分が良かったことを覚えています。

振り返ってみれば、そのとき私はこう考えたのでした。私が捨てたのではないから私の責任ではない。しかしそれはその女性にとっても同じはずです。私の考えは「自己責任論」に囚われていたのに対して、その女性は軽やかにその軛から解き放たれていたのでした。

この本来の責任の範囲を超えてオーバーアチーブされた過剰にこそ、愛はある。そう言ってみたいのです。私は奇説を弄しているのでしょうか。あながちそうでもないと思うのです。というのもイエス様が私たちにしてくださったことも、先述のささやかな出来事とは、その規模こそ違え、同一の構造をもっているからです。『讃美歌2187は、こう歌っています。「罪なき小羊/十字架にかかりて/あざけりうけつつ/苦しみ忍びて/われらの罪とが/にないたまえり」。罪を犯したのは、われわれ人間です。イエス様は何の罪も犯しておられません。だからその責任を取らねばならないのは、本来、人間のはずです。とすればイエス様の十字架の物語は、私たちに与えられたもっとも壮大なオーバーアチーブの物語だと言うこともできるのではないでしょうか。

自己責任は、1990年代の半ば頃から日本社会にしだいに浸透してきた言葉です。その浸透ぶりは、2004年に起きたイラク日本人人質事件をめぐる世論に鮮明に現れました。自己責任という言葉は、同年の「流行語大賞」のトップテンにも選出されています。そしてそれは今もこの社会を席巻していると言ってよいでしょう。

自己責任という言葉をめぐって、荒木優太さんは『無責任の新体系』という本の中で、こう書いています。「それは自己責任だ、という言明は、多くの場合、その当の「自己」から発せられるのではなく、見捨てることを正当化しようとする他者から発せられるものだ」。鋭い観察だと思います。自分の行為に責任をもつことは、悪いことではないでしょう。しかし自己責任論は、その裏面に、他人のことは知ったことではないという排他性をもってもいるのです。そこに遠望されるのは、自分の守備範囲にだけ関心をもつバラバラの個人からなる社会でしょう。それはみ心からはほど遠い社会と言わなければなりません。神様は、「人が独りでいるのは良くない」と明言しておられるのですから。

自己責任を超えた過剰 ― 示されるはずのないところで示された思いがけない愛 ― こそが人々を変え、人々を結びつけていく。そのような愛のマジックを、イエス様は身をもって教えてくださったのではないかと思うのです。

2025/06/02

星野富弘さんの信仰

星野富弘さんをご存知ですか。四季折々の花々を題材になさった詩画作家です。富弘さんは1946424日に群馬県勢多郡東村(現みどり市)で生まれました。1970年春、群馬大学教育学部保健体育科を卒業後、すぐに高崎市立倉賀野中学校の体育教諭になります。ところがそのわずか2ヶ月後(617日)に器械体操のクラブ活動で、模範演技の指導中に誤って墜落し、頚髄を損傷しました。一時は危険な状態にありましたが、何回もの手術の結果、一命を取り留めます。しかし首から下の運動機能を失い、指一本動かすことのできない寝たきりの状態になりました。そして生きることも死ぬこともできず絶望し、心は荒み、日夜付き添って看護してくれる母親にも当たり散らして、何度も泣かせてしまったそうです。

それでも、応援してくれる人々のハガキや手紙には何とか返事を書きたいと思うようになり、1972年、口に筆をくわえて文や絵を書き始めます。するとある日、お見舞いに来てくれた友人から富弘さんは聖書を贈られます。そして母にページをくってもらって読んでいると「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」というイエスさまのお言葉に心を惹かれます(マタ11.28-30/口語訳)。そしてそれに従ってみよう、と思い立ち、かの友人を介して求道生活を開始。1974年に病室で洗礼を受けました。

その後、富弘さんは意欲的に製作活動をなさいます。その作品は全国各地で「花の詩画展」として展示され、多くの人々に感動を与えるようになりました。それは1991年、生まれ故郷に村立富弘美術館が建設されるにまで至ったのです。

2024428日、富弘さんは呼吸不全のために78歳で亡くなりましたが、その作品は現在も多くの人々に愛されています。カレンダーをお持ちの方もあるのではないでしょうか。

富弘さんがお母さまへの感謝を詠み、また信仰の新しい目で詠んでおられる詩を2篇紹介いたしましょう。イエスさまに従った富弘さんの優しさ、強さが伝わってまいります。

「ぺんぺん草」
神様が一度だけ
この腕を動かして下さるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう
風に揺れる
ぺんぺん草の実を見ていたら
そんな日が
本当にくるような気がする

「木」
木は
自分で動きまわることができない
神様に与えられたその場所で
精一杯 枝を張り
許される高さまで
一生懸命 伸びようとしている
そんな木を
私は友達のように思っている

2025/02/04

ヤコブへの手紙

信仰の深まりは、よく自己中心から神中心へという風に語られます。多くの聖書の登場人物の人生の軌跡からも、そのことは確認できます。一例として使徒たちの軌跡を見てみましょう。「マルコによる福音書」第10章に、これからエルサレムに上ろうとされるイエス様が、ご自身の受難を予告されるシーンが出てきます。十字架刑で殺され、三日目に復活すると聞かされた使徒たちの反応はどうだったでしょうか。ヤコブとヨハネは、こう言いました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。唖然とするほど自己中心的な発言です。

しかし「使徒言行録」は、このような弟子たちが、変えられていくプロセスを記録しています。自己中心性からの脱却は、一挙に成し遂げられたわけではありません。その後もイエス様の救いをユダヤ人だけのものにしたいという民族単位に拡大された自己中心性はしつこく残り続けました。しかし異邦人伝道に邁進したパウロたちの働きを通じて、やがてこの拡大された自己中心性も克服されて行くのです。「使徒言行録」は、パウロのローマ到着と宣教活動の記述で終わっていますが、伝説によれば、幽閉されていたヨハネを除く11人は、全員が伝道に赴いた先で殉教したとされています。かつての自己中心的な弟子たちの面影はもはやどこにも見当たりません。ここには自己中心から神中心への転換が鮮やかに示されています。しかし話はこれで終わらないと思うのです。

そのことを私は『ヤコブへの手紙』という映画から教わりました。映画は殺人を犯したレイラという女性が、恩赦によって釈放されるシーンから始まります。行く当てのないレイラを引き受けてくれたのは、年老いた牧師ヤコブでした。ヤコブの元には悩みを抱えた人々から手紙が毎日届いていました。レイラの仕事は、目の見えない牧師のために手紙を読み、牧師の返事を筆記することでした。はじめは嫌々手伝っていたレイラでしたが、悩める人々のために懸命に祈るヤコブの姿に、少しずつ凍りついていた心が溶けていきます。しかしある日を境に手紙がぷっつりと届かなくなってしまうのです。次第に元気をなくしていくヤコブは、レイラにしみじみとこう語ります。「今まで私は、自分が神のために役立っていると信じてきたが、逆だったのかもしれん。手紙はどれも、私のためだったのだ。神が与えてくださったのだよ。すべてはこの私を天国に導くため」。未見の方の興を削がないよう、ストーリーを追うのはここまでにしておきましょう。

ここに見られるような逆転は、なぜ起きるのでしょうか。その理路を、評論家の福田恒存が『人間・この劇的なるもの』の一節で的確に説き明かしています。「私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起こるべくして起こっているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬということをしているという実感だ」。自由に選んだことではなく、なすべきことをなしているときにこそ、私たちは生の充実を感じることができるということでしょう。とすれば神中心に生きることは、自己を殺して苦行に耐えることではありません。真に自己を生かすことでもあるのです。ここにも神の愛があります。