ひとつの手がかりとして、私のささやかな経験を出発点にしてみましょう。先日、住んでいるマンションで、こんな経験をしました。エレベーターに乗り込んだところ、床に誰かが捨てた使用済みのマスクが落ちていたのです。共用の場所を汚すことを何とも思わない落とし主の身勝手さに、私は思わずムッとしたのでした。ところがです。後から乗り込んできた女性が、ごく自然にマスクを拾うと、自分の階で降りていったのです。怒りは感じても拾おうなどとはつゆ思わなかった私は、自分を恥じるとともに、その女性のふるまいに薫風が吹き抜けていったような爽やかさを感じました。その日は一日、とても気分が良かったことを覚えています。
振り返ってみれば、そのとき私はこう考えたのでした。私が捨てたのではないから私の責任ではない。しかしそれはその女性にとっても同じはずです。私の考えは「自己責任論」に囚われていたのに対して、その女性は軽やかにその軛から解き放たれていたのでした。
この本来の責任の範囲を超えてオーバーアチーブされた過剰にこそ、愛はある。そう言ってみたいのです。私は奇説を弄しているのでしょうか。あながちそうでもないと思うのです。というのもイエス様が私たちにしてくださったことも、先述のささやかな出来事とは、その規模こそ違え、同一の構造をもっているからです。『讃美歌21』87番は、こう歌っています。「罪なき小羊/十字架にかかりて/あざけりうけつつ/苦しみ忍びて/われらの罪とが/にないたまえり」。罪を犯したのは、われわれ人間です。イエス様は何の罪も犯しておられません。だからその責任を取らねばならないのは、本来、人間のはずです。とすればイエス様の十字架の物語は、私たちに与えられたもっとも壮大なオーバーアチーブの物語だと言うこともできるのではないでしょうか。
自己責任は、1990年代の半ば頃から日本社会にしだいに浸透してきた言葉です。その浸透ぶりは、2004年に起きたイラク日本人人質事件をめぐる世論に鮮明に現れました。自己責任という言葉は、同年の「流行語大賞」のトップテンにも選出されています。そしてそれは今もこの社会を席巻していると言ってよいでしょう。
自己責任という言葉をめぐって、荒木優太さんは『無責任の新体系』という本の中で、こう書いています。「それは自己責任だ、という言明は、多くの場合、その当の「自己」から発せられるのではなく、見捨てることを正当化しようとする他者から発せられるものだ」。鋭い観察だと思います。自分の行為に責任をもつことは、悪いことではないでしょう。しかし自己責任論は、その裏面に、他人のことは知ったことではないという排他性をもってもいるのです。そこに遠望されるのは、自分の守備範囲にだけ関心をもつバラバラの個人からなる社会でしょう。それはみ心からはほど遠い社会と言わなければなりません。神様は、「人が独りでいるのは良くない」と明言しておられるのですから。
自己責任を超えた過剰 ― 示されるはずのないところで示された思いがけない愛 ― こそが人々を変え、人々を結びつけていく。そのような愛のマジックを、イエス様は身をもって教えてくださったのではないかと思うのです。