キリスト者は息をするように祈る、といわれます。それほど、キリスト者にとって祈りは欠くことのできないものということでしょう。ところで、皆さんは、どのような姿勢で祈っておられるでしょうか。
私は、特に指示されたわけではないけれど、自然と目を閉じて、手を合わせ、うつむき加減で自分の心の中を見つめるような姿勢をとっています。多くの方も同じなのではないでしょうか。
しかし、歴史をさかのぼれば、必ずしもそのような姿勢がスタンダードというわけではなかったようです。神学者の左近豊は、『祈り』という本の中で、旧約聖書における祈りは、「ダイナミックな動きを伴うもの」だったと述べて、こう続けています。「祈りの姿勢は胸の前に手を組んで頭を垂れて・・・というより、乳幼児が全身真っ赤にして必要を訴える相手にむかって、両手を高く上げ、天に向かって必死になって伸ばすようにしてなされるものでありました」。旧約だけではありません。新約聖書においても、例えば「ルカによる福音書」の5000人の給食の場面に描かれているように、イエス様ご自身が「上を向いて、心を高く上げて、おそらく両手を広げて祈ることもおありだった」のです。
ところで、推理小説ブラウン神父シリーズでよく知られた作家のG.K.チェスタトンは、『正統とは何か』という本の中で、「この世に仏教とキリスト教ほど明らさまに矛盾する宗教はまたとない」と述べて、両者の違いを象徴的に示すものとして、「ゴチックのカテドラルのキリスト教の聖人と、中国の寺院の仏教の聖者の像」を例に挙げています。後者が「いつでも目を半眼に閉じている」のに対して、前者は「いつでも目をかっと見開いている」というのです。つまり、両者は、その精神が向かう方向性が正反対なのです。「仏教徒は異常な集中力で内部を見つめている。キリスト教徒は強烈な集中力で外部をにらみつけている」というわけです。
自分の内部には信頼すべきものなど何もない、自分こそもっとも信用できないものなのだ、というのは聖書のもっとも重要な教えのひとつではないでしょうか。使徒パウロも、「ローマの信徒への手紙」の中で、自分への不信を、こう言い表していたはずです。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。
私は何を言おうとしているのでしょうか。「目を閉じて、手を合わせ、うつむき加減」の祈りの姿勢は間違っている、ということでしょうか。そうではありません。大事なことは、たとえ「目を閉じて」いたとしても、祈りの向かう先は、「自分の心の中」などではなく、どこまでも天におられる主であるということです。神様に向かって祈っている限り、首を垂れ、目を閉じていようが、目を開け、天を見つめていようが、どちらでもよいのだと思います。とはいえ、チェスタトンの対比に倣うなら、目を閉じ、首を垂れた姿勢は、少なくとも外形的には、「異常な集中力で内部を見つめ」る仏教的な瞑想の姿勢とよく似ているとはいえそうです。
そこで提案なのですが、ときには皆で、かっと目を見開いて、天をにらみつけるようにして祈ってみてはどうでしょうか。第三者が、外から教会を覗いたら、ちょっと怖い光景かもしれないのですが(笑)。