2026/06/09

『ころべばいいのに』

知り合いの牧師からヨシタケシンスケさんの絵本『ころべばいいのに』(ブロンズ新社)を紹介されました。おもしろい! 実に!

小学生の女の子<わたし>には嫌いな人が何人かいます。ある日、下校中にその何人かを思い出し、「どうして あんなこと いうんだろう」、「じぶんがされたら イヤなことを、どうして ひとにできるんだろう」と考えます。そこで<わたし>はふと、そんな人達がみんな石につまずいて「ころべばいいのに」と思いました。嫌いな人がいると全然楽しくないし、嫌だったことを思い出すからです。そして「わたしって、ダメなの?」と考え、自分のこともどんどん嫌いになりました。そこで<わたし>は「ああ、だれかを にくんでいるじかんが もったいない!」と考え、頭の中で嫌いな人たちをやっつけていきます。例えば、嫌いな人をギューッと小さくして両手で「パーン!」と挟み潰しました(頭の中で)。おなか冷やしロボットを操り、嫌いな人を腹痛にしてやりました。蜂を操って嫌いな人の頭にたからせました。或いはまた、嫌なことがあった日には「いま、わたしがしゅじんこうのえいがの、いちばんかわいそうなシーンをさつえいしている」とか「かわいそうなめにあうと〝かわいそうポイント〟がもらえて、ポイントがたまると あとで ほしいものと こうかんしてもらえる」という空想に耽ります。そして、嫌なことがどうにもならなければ、まったく無関係なことを次々に果たしてやり過ごそうとしました。

しかし<わたし>は悟るのです、「まあ、でも、ダメなときは、なにをやっても ダメよねー」と。そこで<わたし>は嫌な気分を「とつぜんの どしゃぶり」に譬えることにしました。つまり、自分ではどうしようもないもの、と見なすのです。そして嫌な気分でどしゃぶりなら雨宿りできる場所を持とうと思い立ち、自分だけの秘密の隠れ家を作ろうとします(頭の中で)。そして、少しくらいの雨ならば、いっそのことビッチャビチャに濡れてやろうとも考えました。この健やかな開き直りは「なんにせよ、あめだとしたら、いつか かならず やむものね」という境地に達したゆえでしょう。いずれにしても、嫌な気分が雨のようなものならば、いつかは必ず止む。そのことを踏まえ、嫌いな人や嫌なことがやって来てもすぐに自分を励ませるよう、好きなものや楽しいことを集めておいて準備しておくことにしました。そして下校中の<わたし>は通学路で周りを見回し、「おとなは みんな なかよくしてると おもってたけど、おとなにも きらいなひとは いるんだね」と考えるのですが、「ど〜したってうまくいかないひとだって いるかもしれない」と考えます。するとその瞬間、「ひょっとしたら、どーしても きらいなひとって、なにかに あやつられてるんじゃない?」「そいつは、なにか りゆうがあって わたしをねらってるんじゃない?」と思い至ります。そして嫌いな人を操る悪魔的な力に対して「ゆるせない! アイツがにくい!」と怒り心頭に発するのでした。そして「アイツを きらうパワーを つかって、おもしろいことを たーくさん かんがえるんだ!」と決心しました。また、「きっと このさき、おとなになっても きらいなひとは いるかもしれない。でも、いたっていいわよね。だって、ちゃんと かんがえたり、ちゃんと そのばしょから にげたり、ちゃんと むかいあったり。どうするかは じぶんで きめられるんだもんね。ちゃんと、できるようになろっと」、「なぜなら、わたしは アイツが だいきらいだから」と思い、腑に落ちた表情で自宅に入るのでした。
                * * *
この絵本は、嫌いな人や理不尽なことに直面したときの感情のやり過ごし方を提案しています。主人公は小学生ですが、人間関係に悩む大人にも良い処方箋となるでしょう。中でも私(寺田)が一番興味深かったのは、聖書が示す人類の「罪」を<わたし>さんが「アイツ」と呼んで憎み、「だいきらい」と宣言していることです。これは大切な感覚です。自分が嫌いになる人間に対してではなく、そのような自分にしたり、そのような相手にしてしまう悪魔的な力(罪)をこそ憎む姿勢です。まさに、罪を憎んで人を憎まず、です。いや、罪を憎んで人を愛せよ、と言うべきでしょうか。私(寺田)もこれまでに「ころべばいいのに」と何度も思ってきましたが、罪をこそ嫌うパワーを蓄え、発揮させたいと思います。

2026/02/07

パウロの神業

『武道論』という本の中で、内田樹さんが、薩摩示現流の流祖・東郷重位(しげかた)にまつわる次のような不思議な話を紹介しています。城下に野犬が増えて、人びとが困っていたので、重位の息子が人助けに、野犬を数十匹斬り殺して帰宅しました。そして、「あれだけ野犬を斬ったが、一度も切先が地面に触れなかった」と、剣を自在に制御できる自分の力量を誇ったのです。すると、それを聞いていた重位が、「切先が地面に触れなかったことなど誇ってはならない」と諫めました。そして、「斬るとはこういうことだ」と言うと、脇差で、目の前にあった碁盤のみならず、畳、根太まで切り下してみせたというのです。どれほど鍛えようが、人間の筋力では碁盤を斬ることは不可能です。だから内田さんは、このエピソードを、こう読み解いています。「重位が息子に教えたのは剣技とは「自分の持つ力を発揮する」技術ではなく、むしろ「外部から到来する、制御できない力に自分の身体を捧げる」技術だということ」なのだ、と。

確かに不思議な話ですが、私は、そういうことはあるのではないかと思いました。というのも、パウロのことを思い出したからです。もう10年以上前になりますが、パウロが行った3度の伝道旅行の足跡をたどるツアーに参加したことがあります。そのとき、強烈に感じたのは、2000年前のはるかに道路事情の悪い中、しかも、つらい持病を抱えながら、パウロが成し遂げたこの長大な旅は、とても人間業とは思えないということでした。

なぜこんなことがパウロにはできたのでしょうか。その秘密を、パウロ自身が、書簡の中で説き明かしてくれているように思います。パウロの言葉を、いくつか引いてみましょう。私は、「弱い時にこそ、強い」。なぜなら、自分の力に頼ることを止め、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇」るところにこそ、「キリストの力がわたしの内に宿」ってくださるからだ(コリントⅡ12.9-10)。だから、私はこう言おう。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテア2.20)。

森本哲郎さんは、『神の旅人』という本の中で、パウロの人生をこう総括しています。「神はパウロを召し、彼に召命を授け、パウロをして二万キロにおよぶ旅を踏破せしめたのである。パウロの旅は、まさしく、神に導かれてのはるかな道程であった」。パウロの旅の本当の主人公は神だ、ということでしょう。パウロの驚嘆すべき旅は、文字通り神業だったのです。

同様の事の次第を、茨木のり子さんは、マザー・テレサの働きの中に見出しています。「マザー・テレサの瞳」と題された詩の中の次の数節は、その平易かつ美しい言語化と言ってよいでしょう。「自分を無にすることができれば/かくも豊饒なものがなだれこむのか/さらに無限に豊饒なものを溢れさせることができるのか/こちらは逆立ちしてもできっこないので/呆然となる・・・八十六歳の老女はまたなく美しかった/二十世紀の逆説を生き抜いた生涯・・・言葉が多すぎます/といって一九九七年/その人は去った」。ここには、東郷重位が、パウロが、そしてマザー・テレサが体現して見せた人間業を神業に変える奥義が、詩人の直観によって見事に捉えられていると思うのです。