信仰の深まりは、よく自己中心から神中心へという風に語られます。多くの聖書の登場人物の人生の軌跡からも、そのことは確認できます。一例として使徒たちの軌跡を見てみましょう。「マルコによる福音書」第10章に、これからエルサレムに上ろうとされるイエス様が、ご自身の受難を予告されるシーンが出てきます。十字架刑で殺され、三日目に復活すると聞かされた使徒たちの反応はどうだったでしょうか。ヤコブとヨハネは、こう言いました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。唖然とするほど自己中心的な発言です。
しかし「使徒言行録」は、このような弟子たちが、変えられていくプロセスを記録しています。自己中心性からの脱却は、一挙に成し遂げられたわけではありません。その後もイエス様の救いをユダヤ人だけのものにしたいという民族単位に拡大された自己中心性はしつこく残り続けました。しかし異邦人伝道に邁進したパウロたちの働きを通じて、やがてこの拡大された自己中心性も克服されて行くのです。「使徒言行録」は、パウロのローマ到着と宣教活動の記述で終わっていますが、伝説によれば、幽閉されていたヨハネを除く11人は、全員が伝道に赴いた先で殉教したとされています。かつての自己中心的な弟子たちの面影はもはやどこにも見当たりません。ここには自己中心から神中心への転換が鮮やかに示されています。しかし話はこれで終わらないと思うのです。
そのことを私は『ヤコブへの手紙』という映画から教わりました。映画は殺人を犯したレイラという女性が、恩赦によって釈放されるシーンから始まります。行く当てのないレイラを引き受けてくれたのは、年老いた牧師ヤコブでした。ヤコブの元には悩みを抱えた人々から手紙が毎日届いていました。レイラの仕事は、目の見えない牧師のために手紙を読み、牧師の返事を筆記することでした。はじめは嫌々手伝っていたレイラでしたが、悩める人々のために懸命に祈るヤコブの姿に、少しずつ凍りついていた心が溶けていきます。しかしある日を境に手紙がぷっつりと届かなくなってしまうのです。次第に元気をなくしていくヤコブは、レイラにしみじみとこう語ります。「今まで私は、自分が神のために役立っていると信じてきたが、逆だったのかもしれん。手紙はどれも、私のためだったのだ。神が与えてくださったのだよ。すべてはこの私を天国に導くため」。未見の方の興を削がないよう、ストーリーを追うのはここまでにしておきましょう。
ここに見られるような逆転は、なぜ起きるのでしょうか。その理路を、評論家の福田恒存が『人間・この劇的なるもの』の一節で的確に説き明かしています。「私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起こるべくして起こっているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬということをしているという実感だ」。自由に選んだことではなく、なすべきことをなしているときにこそ、私たちは生の充実を感じることができるということでしょう。とすれば神中心に生きることは、自己を殺して苦行に耐えることではありません。真に自己を生かすことでもあるのです。ここにも神の愛があります。