2026/02/07

パウロの神業

『武道論』という本の中で、内田樹さんが、薩摩示現流の流祖・東郷重位(しげかた)にまつわる次のような不思議な話を紹介しています。城下に野犬が増えて、人びとが困っていたので、重位の息子が人助けに、野犬を数十匹斬り殺して帰宅しました。そして、「あれだけ野犬を斬ったが、一度も切先が地面に触れなかった」と、剣を自在に制御できる自分の力量を誇ったのです。すると、それを聞いていた重位が、「切先が地面に触れなかったことなど誇ってはならない」と諫めました。そして、「斬るとはこういうことだ」と言うと、脇差で、目の前にあった碁盤のみならず、畳、根太まで切り下してみせたというのです。どれほど鍛えようが、人間の筋力では碁盤を斬ることは不可能です。だから内田さんは、このエピソードを、こう読み解いています。「重位が息子に教えたのは剣技とは「自分の持つ力を発揮する」技術ではなく、むしろ「外部から到来する、制御できない力に自分の身体を捧げる」技術だということ」なのだ、と。

確かに不思議な話ですが、私は、そういうことはあるのではないかと思いました。というのも、パウロのことを思い出したからです。もう10年以上前になりますが、パウロが行った3度の伝道旅行の足跡をたどるツアーに参加したことがあります。そのとき、強烈に感じたのは、2000年前のはるかに道路事情の悪い中、しかも、つらい持病を抱えながら、パウロが成し遂げたこの長大な旅は、とても人間業とは思えないということでした。

なぜこんなことがパウロにはできたのでしょうか。その秘密を、パウロ自身が、書簡の中で説き明かしてくれているように思います。パウロの言葉を、いくつか引いてみましょう。私は、「弱い時にこそ、強い」。なぜなら、自分の力に頼ることを止め、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇」るところにこそ、「キリストの力がわたしの内に宿」ってくださるからだ(コリントⅡ12.9-10)。だから、私はこう言おう。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテア2.20)。

森本哲郎さんは、『神の旅人』という本の中で、パウロの人生をこう総括しています。「神はパウロを召し、彼に召命を授け、パウロをして二万キロにおよぶ旅を踏破せしめたのである。パウロの旅は、まさしく、神に導かれてのはるかな道程であった」。パウロの旅の本当の主人公は神だ、ということでしょう。パウロの驚嘆すべき旅は、文字通り神業だったのです。

同様の事の次第を、茨木のり子さんは、マザー・テレサの働きの中に見出しています。「マザー・テレサの瞳」と題された詩の中の次の数節は、その平易かつ美しい言語化と言ってよいでしょう。「自分を無にすることができれば/かくも豊饒なものがなだれこむのか/さらに無限に豊饒なものを溢れさせることができるのか/こちらは逆立ちしてもできっこないので/呆然となる・・・八十六歳の老女はまたなく美しかった/二十世紀の逆説を生き抜いた生涯・・・言葉が多すぎます/といって一九九七年/その人は去った」。ここには、東郷重位が、パウロが、そしてマザー・テレサが体現して見せた人間業を神業に変える奥義が、詩人の直観によって見事に捉えられていると思うのです。