宇多田ヒカルさんの初期の名曲「time
will tell」の中には、「時間がたてばわかる」というフレーズが繰り返し出てきますが、聖書の中にも、そのときにはわからなかった出来事の意味が、後になってようやくわかるという構造を持ったお話がたびたび出てきます。
もっともよく知られているのは、「ヨセフ物語」でしょう。簡単に振り返っておきましょう。ヨセフは12人兄弟の11番目でした。父のヤコブに特にかわいがられた上に、生意気な口をきくので兄弟たちから疎まれ、エジプトに奴隷として売られてしまいます。奉公先でも苦難は続きます。濡れ衣を着せられて、牢屋に入れられてしまうのです。しかし、牢屋で夢を解き明かすという不思議な能力を発揮します。そして、エジプト王の見た夢を見事に解き明かしたヨセフは、エジプトの国を飢饉から救い、その功績からエジプトの首相に大出世するのです。そこへ、飢饉にみまわれた兄弟たちが、カナンから助けを求めてやってきます。自分を売り飛ばした兄弟たちでしたが、ヨセフは復讐をするどころか、兄弟たちに、こう言います。「今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」。ヨセフにとって、苦難は、そのときにはただ苦難でしかありませんでした。しかし、後になって、ヨセフにはなぜ自分が苦難に会わなければならなかったのかが、わかるようになったのです。では、なぜこのような理解遅れが生じるのでしょうか。
謎を解くために、補助線を引いてみましょう。内田樹さんが『街場の教育論』という本の中で、「学ぶ」とはどういうことかについて、次のように論じています。「学ぶ」とは、知識を加算的に増やしていくことではありません。自分が予め持っている価値判断の「ものさし」をそのままに、まるで「『領地』を水平方向に拡大」していくかのように情報を収集していくことではないのです。そうではなく、「それまで自分を『私はこんな人間だ。こんなことができて、こんなことができない』というふうに規定していた『決めつけ』の枠組み」を垂直方向に離陸することなのです。自分の「ものさし」が打ち砕かれ、それが新たな「ものさし」へと置き換えられるブレークスルー、それが「学ぶ」ということだ、と内田さんは言います。ブレークスルーの経験は、こう表現されています。「突然、あたりが開けたような感じがする。自分がどこにいて、どういう役割を果たしているのか、果たすべきなのか、それがそれまでとは違う、もっと広大な文脈の中に位置づけられる経験」。これは、まさにヨセフが経験したことではないでしょうか。
出来事を自分の狭い「ものさし」でしか測れなかったヨセフは、神が起動させてくださった「学び」のプロセスを通じて、他者をも包摂する広い「ものさし」を持った別人へと作り変えられていきました。わかるためには、「学ぶ」ことによって、私が別人になる必要があるということ。これが、理解遅れが生じる秘密だったのです。
キリスト者は、「私を新しくしてください」とよく祈ります。詩編第51篇12節に由来する祈りです。この祈りは、ヨセフがそうであったように、神によって私が砕かれ、造り変えられることを喜ぶ、祈りの本義をとてもよく示した祈りであるように思うのです。