2024/08/10

時間がたてばわかる

宇多田ヒカルさんの初期の名曲「time will tell」の中には、「時間がたてばわかる」というフレーズが繰り返し出てきますが、聖書の中にも、そのときにはわからなかった出来事の意味が、後になってようやくわかるという構造を持ったお話がたびたび出てきます。

もっともよく知られているのは、「ヨセフ物語」でしょう。簡単に振り返っておきましょう。ヨセフは12人兄弟の11番目でした。父のヤコブに特にかわいがられた上に、生意気な口をきくので兄弟たちから疎まれ、エジプトに奴隷として売られてしまいます。奉公先でも苦難は続きます。濡れ衣を着せられて、牢屋に入れられてしまうのです。しかし、牢屋で夢を解き明かすという不思議な能力を発揮します。そして、エジプト王の見た夢を見事に解き明かしたヨセフは、エジプトの国を飢饉から救い、その功績からエジプトの首相に大出世するのです。そこへ、飢饉にみまわれた兄弟たちが、カナンから助けを求めてやってきます。自分を売り飛ばした兄弟たちでしたが、ヨセフは復讐をするどころか、兄弟たちに、こう言います。「今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」。ヨセフにとって、苦難は、そのときにはただ苦難でしかありませんでした。しかし、後になって、ヨセフにはなぜ自分が苦難に会わなければならなかったのかが、わかるようになったのです。では、なぜこのような理解遅れが生じるのでしょうか。

謎を解くために、補助線を引いてみましょう。内田樹さんが『街場の教育論』という本の中で、「学ぶ」とはどういうことかについて、次のように論じています。「学ぶ」とは、知識を加算的に増やしていくことではありません。自分が予め持っている価値判断の「ものさし」をそのままに、まるで「『領地』を水平方向に拡大」していくかのように情報を収集していくことではないのです。そうではなく、「それまで自分を『私はこんな人間だ。こんなことができて、こんなことができない』というふうに規定していた『決めつけ』の枠組み」を垂直方向に離陸することなのです。自分の「ものさし」が打ち砕かれ、それが新たな「ものさし」へと置き換えられるブレークスルー、それが「学ぶ」ということだ、と内田さんは言います。ブレークスルーの経験は、こう表現されています。「突然、あたりが開けたような感じがする。自分がどこにいて、どういう役割を果たしているのか、果たすべきなのか、それがそれまでとは違う、もっと広大な文脈の中に位置づけられる経験」。これは、まさにヨセフが経験したことではないでしょうか。

出来事を自分の狭い「ものさし」でしか測れなかったヨセフは、神が起動させてくださった「学び」のプロセスを通じて、他者をも包摂する広い「ものさし」を持った別人へと作り変えられていきました。わかるためには、「学ぶ」ことによって、私が別人になる必要があるということ。これが、理解遅れが生じる秘密だったのです。

キリスト者は、「私を新しくしてください」とよく祈ります。詩編第5112節に由来する祈りです。この祈りは、ヨセフがそうであったように、神によって私が砕かれ、造り変えられることを喜ぶ、祈りの本義をとてもよく示した祈りであるように思うのです。

2024/06/09

わらのうし

今回はウクライナで語り継がれてきた昔話『わらのうし』を紹介しましょう。

あるところに貧しい農家の老夫婦がおりました。おじいさんはタールを作り、おばあさんは糸紡ぎをして、二人でほそぼそと暮らしていました。ある日、おばあさんがおじいさんに頼みます、「わらでうしをつくっとくれ。よこっぱらにタールをぬっとくれ」と。本物の牛など飼えないけれど、わらでなら牛を手に入れられる、そう思ったのでしょう。おじいさんは「ばかばかしい」と思いながらも、わらで牛を作り、その横っ腹にタールをたっぷり塗りました。すると本物の乳牛にそっくりな「わらのうし」が出来上がりました。

翌朝おばあさんは大喜びでわらの牛を連れて(引きずり上げて?)丘の上に登ります。そこで陽に当たりながら糸を紡ぐためでした。ところがそのうち居眠りを始めてしまいます。するとそこへ森からクマがやってきて、わらの牛にでくわして言いました、「おまえ、だれだ」。わらのうしは答えます、「よこっぱらタールのわらのうしさ」。するとクマは「犬に腹を食いちぎられたからタールをよこせ」と要求します。実際、その脇腹には肉がえぐれた跡があります。しかし、わらの牛は無反応。返事をしない牛にクマは腹を立て、タールを勝手に剥ぎ取ろうとしました。するとクマはタールにくっついて離れられなくなったのです。その時おばあさんが目を覚まし、おじいさんを呼び、その声を聞きつけたおじいさんが駆けつけてクマを捕え、穴ぐらに閉じ込めてしまいました。

その後、なんとオオカミやキツネもそっくり同じ手順でおじいさんに捕まってしまいます。そして穴ぐらが満員になったところで、おじいさんは捕らえた動物たちを見つめながら、ナイフを研いで皮算用を始めたのです。クマはそれを見聞きしてギョッとします。「やめてくれ。じいさん。にがしてくれたらはちみつをたっぷりもってくるから」。オオカミも頼みました、「たのむにがしてくれ。おれのけがわのかわりにひつじをつれてくるから」と。続いてキツネも懇願します、「やめてよ。おねがい。そのかわり、にわとりとあひるとがちょうをあげるから」と。動物たちの願いをおじいさんは聞き入れてやり、次々に解放してやりました。すると次の日の朝、まだ暗いうちに、まずクマがやって来て、はちみつを巣箱ごと届けてくれました。そしてすぐ、今度はオオカミが羊をゾロゾロと連れて来て家の庭に追い込み、そこへ続いて、キツネがにわとりとあひるとがちょうとを連れて来ました。おじいさんもおばあさんも大喜び。動物たちの恩返し(?)を受け、幸せに暮らし始めます。一方、あのわらのうしはしばらくの間、丘の上に立ち続け、やがて崩れて無くなったのでした。

この昔話には、動物やわらのうしが口を利くことや、逃がしてもらった動物たちが約束を守るといった、常識ではあり得ないことが繰り返されています。しかも(ちょっと考えればわかるように)動物たちが持って来た物はどれも間違いなく盗んで来たものです。恐らく、はちみつの巣箱は養蜂家、羊は牧畜家、にわとりとあひるとがちょうとは一般的な農家から、それぞれ手に入れて来たものでしょう。つまり、命を助けてもらった恩に対して、非合法な仕方で応えているのです。これらはすべてナンセンスであるに違いありません。

しかし、このナンセンスを面白がれるかどうかが物語を楽しむ急所なのではないでしょうか。事実、子どもたちは皆『わらのうし』を読み聞かせられて大笑いします。最後にはおじいさんとおばあさんが本物の牛を飼うようになり、豊かに暮らしているハッピーエンドを見て拍手喝采までするのです。この老夫婦の後日談を描く場面では、おじいさんが牛に車を引かせて出かけてもいますが、もはやそこに言葉はありません。裏表紙には、崩れたわらのうしが原型を失った有様で静かに描かれます。でも、それらの絵だけからでも、子どもたちは大事なメッセージを聞き取っているようです。もしかすると、幼子のようになるということは、ナンセンスを受け入れることと一つのことなのかも知れません。

2024/02/04

無力の力

日本でも、薬物依存やアルコール依存は、大きな社会問題になっています。どうすれば、そのような依存症から抜け出すことができるのでしょうか。すぐに思いつくのは、薬物やアルコールを断とうとする強い気持ちが大切だということです。実は、第三者だけでなく、依存者自身も多くがそう考えています。依存者自身が、意志の力を総動員し、自分をコントロールしなければならないと信じているのです。でも、本当にそれが解決策なのでしょうか。

アルコホーリクス・アノニマスというグループがあります。アルコール依存症からの回復を目指す患者たちの自助グループです。メンバー数は200万人を超え、大きな成果をあげているそうです。興味深いのは、彼らの向かう方向が、先に見た解決策とは真逆だということです。自己コントロールを手放すことこそが、回復への第一歩だというのです。『人間の生のありえなさ』という本の中で、脇坂真弥さんは、そのことをこう表現しています。「彼らが酒に勝つ可能性はまったくない。しかし、逆に「酒に勝つ可能性は皆無だ」と心から知ることが、彼らの唯一の回復の可能性である」。

にわかには受け入れがたい逆説です。どういうことなのでしょうか。「私は負け犬ではない」というプライドが打ち砕かれ、「本当の自分の姿を目の当たりにする」瞬間は、「底つき」と呼ばれています。そして、この底つきにいたったとき、依存者は、「自分を衝き動かしていた狂気の本当の意味を悟」ります。「自分が求めていたのは酒ではなく、酒という形でしか—酒との戦いにおける必然的敗北を通じてしか—触れることができない「自分を超えた大きな力」だった」ことに気づくのです。完全な敗北の認識が、そのまま霊的経験につながっているというわけです。そして、そこから、「大きな力」の配慮に自らを委ねる回復への道が始まるのです。

ここで思い出されるのは、ペトロの人生の軌跡です。ペトロには、自分がイエス様の一番弟子だというプライドがありました。だから、イエス様が弟子たちに、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」といわれたとき、ペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と大見得を切ったのです。しかし、ユダの裏切りにあい、イエス様が逮捕されると、ペトロも含めて、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」のでした。

確かにペトロは、その後もイエス様のことを心配して、イエス様が捕らわれている大祭司の屋敷まで様子を伺いに出かけています。しかし、女中の一人に「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と声をかけられると、イエス様が予告された通り、「そんな人は知らない」とウソをついたのです。ペトロは、イエス様の言葉を思い出し、「外に出て、激しく泣いた」と聖書は伝えています。私は、これが、ペトロの底つきの瞬間だったのだと思います。自分の無力さを自覚するとともに、その自覚へと導いてくれたのが「自分を超えた大きな力」であることも知ったのです。ここがペトロの転換点になりました。

殉教も辞さない強い弟子に成長するためには、まず徹底して自らの無力さを知る必要がありました。そして、そんな自分が神様に支えられていることを知る必要がありました。ペトロにとって、それこそが神様をお迎えするもっとも大切な心の準備だったのです。

2023/12/03

クリスマスの飾り

クリスマスが近づくと、ドアや壁などに掛けるお馴染みの輪飾り。そう、クリスマスリースです。このリースの発祥はギリシャ時代にまでさかのぼることができるそうで、当時のリースは結婚式や春のお祭りなどのお祝いの席に飾られました。続くローマ時代には新年に親しい者同士で互いの健康を祈って贈り合い、玄関に飾ったようです。そして意外にも、このリースのクリスマスグッズとしての歴史は浅く、クリスマス専用のリースが生まれたのは19世紀初頭と言われています。1130日に最も近い日曜日、つまり降誕前節第四主日になって(アドベントが始まって)から飾り、公現日(翌年16日)を過ぎたら片付けられました。

このリースの材料には一般に常緑樹が使われます。ツタを丸めて土台を作り、ヒイラギやモミなど常緑樹の枝葉で覆い、松ぼっくりなどの木の実で飾り付けるのが一般的です。そしてこのリースを机の上に横向きに置いて(もしくはリボンで天井から水平に吊るし)ロウソクを4本立てるとクランツになります。リース同様、これも降誕前節第四主日に飾られ始めますが、日曜日を迎えるごとにロウソクに火が灯されます。この降誕前節はアドヴェントとも呼ばれます。到来を意味するラテン語、アドヴェントゥス(adventus)に由来する言葉で、救い主イエス=キリストの誕生を待ち望んだ旧約の民の心を再認識する期間です。また、その救いが罪からの救いであることから罪の自覚が求められ、そのために、イエス=キリストが十字架につけられる時に着せられた服の色である紫をアドヴェント・クランツのロウソクの色とするのです。

アドヴェント・クランツは19世紀のドイツで始まったと言われています。ドイツでJ.H.ヴィヒャーンがハンブルクにある子どもたちの施設「ラウエス・ハウス」(粗末な家)で初めて行い、当時はクリスマスまで毎日1本ずつロウソクを灯したそうです。1860年以後、ベルリンのテーゲルの孤児院にも伝わり、次第に広まって行きました。クランツはドイツ語で「冠」の意味で、イエス=キリストが王として来られることを、尊敬と崇拝の意をもって待ち望むことを現わします。

このクランツに立てられる4本のロウソクの内、1本だけバラ色(ピンク)にすることがあります。これは降誕前節第三主日のロウソクで、暦の上では「ガウデーテの日」と呼ばれている日に使われます。「ガウデーテ」は「喜びなさい」という意味のラテン語で、降誕前節第三主日の礼拝を始める時に読まれる聖書日課、フィリピの信徒への手紙第44節「主において常に喜びなさい」の冒頭の言葉です。バラ色のキャンドルは紫で示されていた悔い改めの意味を和らげ、喜びの日が近づいていることを示しているそうです。そして4本目のキャンドルが灯された後、教会によっては1224日のクリスマスイブに、ロウソクをすべて神の栄光を表す白に換え、救い主イエス=キリストの誕生により暗闇の世界に光が灯されたことを示すのです。

このように、クリスマスの習慣一つ一つに意味があるのですが、その通りにしなければならない、ということではありません。信仰者たちが歴史の中で受け継いできたクリスマスの本当の喜びを心に留めて過ごすために、一つ一つの意味を覚えておく工夫に過ぎません。でも、それがアドヴェント、クリスマスを有意義に過ごすコツでもあると思います。

ちなみに常緑樹を(永遠を意味する)輪にせず、花束を縛って吊り下げた飾りはスワッグ(ドイツ語で「壁飾り」)、ロープのように壁に張り巡らせたり、ドアや額の周りに貼ったりする花飾りはガーランド(英語で「花輪、花冠」)と呼ばれます。そのいずれにおいても常緑樹の緑は命を、白は神の栄光の輝きを、ポインセチアなどの赤はキリストが十字架で流された血潮を示す、とされます。会堂内に入られたら、礼拝やキャンドルサービスのメッセージに「命」「栄光」「十字架」などのキーワードを探してみてください。きっと、飾付けを見る以上の喜びが皆さんの心に溢れることでしょう。

2023/08/01

天才か使徒か

「民藝運動」をご存じでしょうか。1926年に柳宗悦たちが「日本民藝美術館設立趣意書」を発表したことが、この運動の始まりとされています。一般的には「手仕事によって生み出された日常づかいの雑器に美を見出そうとする運動」と説明されますが、この運動が推し進めようとした「美」の見方の転換は、キリスト者にとっても学ぶところの多いものです。

私たちは、特別な才能を持った天才が、その個性を存分に発揮して作り出した作品に、美が宿ると考えているのではないでしょうか。そうした作品は、貴重で高価ですから、とうてい日常づかいにはなりません。また作品は個性の表現ですから、私たちは、誰の作であるかを示す「銘」を過剰にありがたがります。ともすれば「器そのものを見ているのではな」く、「名を贖」うような倒錯さえ生じるほどです。

これに対して、「民藝美の一つの著しい特質はそこに個性癖が見えない点」にあります。無名の職人が、人々の用に仕える器を作り出そうとして、「自然な材料」を用い、「自然な工程」に従い、「素直な心」で作業にいそしむとき、そこに無心の美が宿ると柳は言います。人々の用に仕えるために「多く作られ安くできる日常品」の中に、かえって自我へのこだわりから解き放たれた「無我的な超個人的な美が示される」と言うのです。柳は、人間が個性を超克して、無心になり、自然を映し出すところに美を見出そうとしているのです。

ところで柳は、「信の法則と美の法則とに変わりはない」とも書いています。「よき信仰」も「主我の世界にはなく、没我の世界にのみ現れる」からです。とすれば柳の議論が、哲学者のキルケゴールが「天才と使徒との相違について」という小論の中で述べていることと符合することに不思議はないでしょう。「天才は自分自身によって、すなわち、自分自身の内にあるものによって、その在るところのものである。使徒は神からの権能によってその在るところのものである」。これが、天才と使徒との決定的な違いです。パウロの才気や明敏や比喩の豊かさをほめ、彼を天才と見なす人がいます。しかしそれは「パウロには迷惑なこと」に過ぎないとキルケゴールは言います。そしてそんな人に、パウロならこう答えるだろうと言うのです。「君の心にしかととどめてもらいたいのは、わたしの語ることは啓示によってわたしに委託されたものだということ、だから語っておられるのは神ご自身あるいは主イエス・キリストであるということである」。

ここで思い出されるのは、カルヴァンが、彼の聖書理解に基づいて形成された一派に「カルヴァン派」という個人名を冠することを許さず、「改革派」という信仰の姿勢を示す名称を用いたことです。カルヴァンは、墓碑を作ることも許しませんでした。自分が神格化されてしまうことを恐れたからです。もちろんツヴァイクが『権力とたたかう良心』で辛辣に描いたように、カルヴァンの生涯にはいくつもの過ちがありました。だからカルヴァンも聖人などではなく、一人の罪人に過ぎません。しかしカルヴァンが、「実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(マコ13.11)というみ言葉に忠実に神の器として生きようとしたことは間違いないでしょう。カルヴァンは、天才として自らの名を残すことの「栄光」より、使徒として生きることの「光栄」をよく知っていたのです。

2023/06/11

パスポートになりませんか?

20233月、『ちきゅうパスポート』という旅行券が販売されました(日本国際児童図書評議会/BL出版)。本物のパスポートのように名前や誕生日を書く欄もあります。表紙には「えほん作家から地球の子どもたちへ」と銘打たれ、その裏には「わたしたち地球のえほん作家は、このパスポートの持ち主である子どもが、地球を自由に移動できるようにし、必要な場合にはいつでも手をさしのべて子どもを守ってくれるよう、すべての関係者にお願いします」と日本語と英語で書かれています。このパスポートを発行したのは24人の絵本作家たちで、スタンプの代わりに想像の国を一人当たり1ページ、描いておられます。例えば降矢ななさんは「ちゃんぽんの国」、田島征三さんは「愛しても愛しても愛し足りないクニ」、スズキコージさんは「花孔雀村」です。しかも、24カ国が全部次の国へと手(或いは足、尾、羽根、etc.)で一つに繋がっているためにジャバラ製本なのです。

なぜこんなパスポートを発行したのか、発起人の一人ささめやゆきさんは次のようにお書きです、「いま地球上で、戦争にまきこまれて、くるしんでいる子どもたちがいます。わたしたちえほん作家は、その子どもたちとともに生きてきました。なにがあっても、かれらとともに希望をもちたいと、この『ちきゅうパスポート』をつくりました。なにもできなくても、なにもしないわけにはいかないきもちです。こわされたビルは建てなおせなくても、石いっこだけでも運ぶおもいです」と。本書の収益の一部がウクライナの子どもたちの支援のために寄付されることを考えると、この「石いっこ」はとても大きく、温かい石であることがよく分かります。

ご存知のように、ロシアは国境を超えて隣国ウクライナに侵攻し、戦争を続けています。「元は自分たちの土地だった」という理由によって。でも、そもそも土地、国土って何のために有るのでしょう。そこに住んでいる人たちが共に生きていくためではないでしょうか。そうであれば、殺し合うための国境なんて本当は要らないのではないでしょうか。

イエスさまはおっしゃいました、「わたしのは、この世には属していない。もし、わたしのがこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしのはこの世には属していない」(ヨハ18.36)と。イエスさまがおっしゃる「わたしの国」、それは教会です。どの国の、いつの時代の人でも、教会ではイエスさまの国に入ることができます。ただし、建物に入るだけなら虫にだってできます。皆さんはぜひ、教会というイエスさまの国の「国民」になってください。その時、皆さんはパスポートをもらえます。それは紙でできたパスポートではありません。イエスさまを王さまと信じる心が与えられたひとに洗礼という水が注がれ、そのひと自身がパスポートになるのです。水が体をきれいにするように、洗礼は、戦争や死の原因である罪からそのひとがきれいにされ、パスポートになったしるしです。そして、このパスポートは、たとえそのひとが死んでしまっても、神さまが引き取ってくださり、そのひとがイエスさまの国の国民であることを、終わりの日の復活によって明らかにしてくださいます。それがイエスさまの国の国民に約束されていることなのです。だから、さあ、あなたもパスポートになりませんか?

2023/04/15

寺田牧師からのメッセージ

もしもイエスさまの復活がなかったら、世界はどうなっていたでしょう。

きっと、イエスさまを神の子、救い主と信じる人は一人もいなかったことでしょう。そして教会はなく、礼拝もありません。聖書も讃美歌もないし、キリスト教の学校や病院もありません。だから世界の誰一人、イエスさまを知らないでいた筈です!

もちろん、世界がそうなることを神さまはお望みにならず、ちゃんとイエスさまを復活させました。ただし聖書には、イエスさまが復活された様子については何も書いていないのです。つまり、イエスさまの復活は誰にも見られることがなく、ひっそりと起こったのです。

実はここに神さまからの問い掛けがあります。もしも多くの人々が見守る中で、イエスさまが華々しく墓から出てくれば宣伝効果抜群で、そこにいた誰もが復活を認めることでしょう。でも、神さまはそんな手段をお選びになりませんでした。それは「あなたは復活を信じますか? 見ないで信じますか? 私は決して無理やり強制することはしませんよ」と、いつの時代でもお尋ねになるためです。神さまのその問い掛けに私たちは「信じます」と答える教会です。昔も今もこれからも。どんなことがあろうとも。