今回はウクライナで語り継がれてきた昔話『わらのうし』を紹介しましょう。
あるところに貧しい農家の老夫婦がおりました。おじいさんはタールを作り、おばあさんは糸紡ぎをして、二人でほそぼそと暮らしていました。ある日、おばあさんがおじいさんに頼みます、「わらでうしをつくっとくれ。よこっぱらにタールをぬっとくれ」と。本物の牛など飼えないけれど、わらでなら牛を手に入れられる、そう思ったのでしょう。おじいさんは「ばかばかしい」と思いながらも、わらで牛を作り、その横っ腹にタールをたっぷり塗りました。すると本物の乳牛にそっくりな「わらのうし」が出来上がりました。
翌朝おばあさんは大喜びでわらの牛を連れて(引きずり上げて?)丘の上に登ります。そこで陽に当たりながら糸を紡ぐためでした。ところがそのうち居眠りを始めてしまいます。するとそこへ森からクマがやってきて、わらの牛にでくわして言いました、「おまえ、だれだ」。わらのうしは答えます、「よこっぱらタールのわらのうしさ」。するとクマは「犬に腹を食いちぎられたからタールをよこせ」と要求します。実際、その脇腹には肉がえぐれた跡があります。しかし、わらの牛は無反応。返事をしない牛にクマは腹を立て、タールを勝手に剥ぎ取ろうとしました。するとクマはタールにくっついて離れられなくなったのです。その時おばあさんが目を覚まし、おじいさんを呼び、その声を聞きつけたおじいさんが駆けつけてクマを捕え、穴ぐらに閉じ込めてしまいました。
その後、なんとオオカミやキツネもそっくり同じ手順でおじいさんに捕まってしまいます。そして穴ぐらが満員になったところで、おじいさんは捕らえた動物たちを見つめながら、ナイフを研いで皮算用を始めたのです。クマはそれを見聞きしてギョッとします。「やめてくれ。じいさん。にがしてくれたらはちみつをたっぷりもってくるから」。オオカミも頼みました、「たのむにがしてくれ。おれのけがわのかわりにひつじをつれてくるから」と。続いてキツネも懇願します、「やめてよ。おねがい。そのかわり、にわとりとあひるとがちょうをあげるから」と。動物たちの願いをおじいさんは聞き入れてやり、次々に解放してやりました。すると次の日の朝、まだ暗いうちに、まずクマがやって来て、はちみつを巣箱ごと届けてくれました。そしてすぐ、今度はオオカミが羊をゾロゾロと連れて来て家の庭に追い込み、そこへ続いて、キツネがにわとりとあひるとがちょうとを連れて来ました。おじいさんもおばあさんも大喜び。動物たちの恩返し(?)を受け、幸せに暮らし始めます。一方、あのわらのうしはしばらくの間、丘の上に立ち続け、やがて崩れて無くなったのでした。
この昔話には、動物やわらのうしが口を利くことや、逃がしてもらった動物たちが約束を守るといった、常識ではあり得ないことが繰り返されています。しかも(ちょっと考えればわかるように)動物たちが持って来た物はどれも間違いなく盗んで来たものです。恐らく、はちみつの巣箱は養蜂家、羊は牧畜家、にわとりとあひるとがちょうとは一般的な農家から、それぞれ手に入れて来たものでしょう。つまり、命を助けてもらった恩に対して、非合法な仕方で応えているのです。これらはすべてナンセンスであるに違いありません。
しかし、このナンセンスを面白がれるかどうかが物語を楽しむ急所なのではないでしょうか。事実、子どもたちは皆『わらのうし』を読み聞かせられて大笑いします。最後にはおじいさんとおばあさんが本物の牛を飼うようになり、豊かに暮らしているハッピーエンドを見て拍手喝采までするのです。この老夫婦の後日談を描く場面では、おじいさんが牛に車を引かせて出かけてもいますが、もはやそこに言葉はありません。裏表紙には、崩れたわらのうしが原型を失った有様で静かに描かれます。でも、それらの絵だけからでも、子どもたちは大事なメッセージを聞き取っているようです。もしかすると、幼子のようになるということは、ナンセンスを受け入れることと一つのことなのかも知れません。